もう一度、君に恋する方法

 クローゼットに閉じこもってスマホでネットニュース見ながら時間が過ぎるのを待った。だけど、私の今のこの状況を変えてくれるようなニュースは一つもなかった。

 コンコンと、クローゼットの扉をノックする音が聞こえた瞬間、体に警戒心が働く。油断して扉を開けられるようなことがあってはいけない。だけど、無理に扉を開けられる気配はなかった。

「じゃあ俺、そろそろ行くから。お弁当ありがとう。今日も暑いし、気を付けてね」

 扉越しに聞こえたその声に、もちろん返事をしなかった。

「行ってきまーす」という元気な声に、「行ってらっしゃい」と返す人はいない。
 いつものことだ。
 見送りをする人さえいない。
 あの人はこうして、いつも勝手に出ていく。
 それが日常。

 玄関扉がぱたんと閉まる音がした。続いて鍵を閉める音。最後に鍵がかかっているのか確認する音。
 ガタガタと大げさに扉を揺すって確認する音がいつもやかましい。
 静かになると、またため息が漏れる。

 こんなの、子どもの教育上良くないってわかってる。
 ほんとは家族そろって玄関で「いってらっしゃい」って、笑顔で送り出してあげるべきなのだ。それが理想の家族だと思うし、そうでありたいと思ってる。
 子どもたちにも、父親を敬う気持ち、仕事をしてくれていることに対する感謝の気持ち、家族を大切にする気持ち、そんな気持ちを育ませたいと思っていた。だけど現実は、そう上手くいくものじゃなかった。
 簡単だと思っていたことは、思いのほか難しかった。
 自分ならできると思っていたことが、できない。
 理想とは程遠いのが、現実だった。
 現に、そう願う私には、そんな敬いや感謝の気持ち、微塵もなかった。
 あるのは不平不満と苛立ちだった。

 両親の仲は、悪いより良い方が良いに決まってる。喧嘩や言い争いなんて、子どもの前で見せるものではない。そんな光景を見て育った子供は、まともな子に育たない。それは子育てサイトで、研究成果としてばっちり記されている。どの子育てサイトを見ても、文言は違えど、そんなアドバイスが列挙されている。
 だからうちの子は、いい子に育たなかった。
 長男は意地悪で生意気だし、次男は弱虫で泣き虫だ。

 親になるって面倒だ。
 相手と不仲であっても、子どもの前では仲が良い風に取り繕わなきゃいけないんだから。

 クローゼットから出ると、いつの間にかテレビがついていて、教育番組の楽し気な歌や音楽が頭をふわふわふと揺らし出す。
ダイニングテ―ブルから身を乗り出して番組を見ている二人の口は、止まっている。口だけじゃない。ウインナーの刺さった箸も、牛乳の入ったコップも、危なかしげにその小さな手の中にあった。
 
 この番組が始まったということは、そろそろ出発する時間だ。

「ほら、何やってんの? テレビ見てないでさっさと食べて。もう行くよ」

 交互に口の中にご飯やらおかずやらを詰め込んでいく。二人の口がもごもごと動き始めた。
「はあ」とまたため息が出た。

「それ食べたらもう行くよ」

 二人を残して洗面台に向かった。足元に散らばった洗濯物に、めまいを起こしそうになった。
 とりあえずネットに放り込み、それを洗濯機に投げ込んだ。帰宅時間に合わせて回し終えていたい。

 なんとか洗濯機が回り始めて足元がすっきりすると、洗面台の前に立った。まだ自分の準備も終わっていない。
 顔をガシガシと洗って、コンタクトレンズをつけて、ぱっと顔を上げた。その瞬間、薄暗がりの洗面室の鏡の中に、私の顔がはっきりと映し出された。

 ぼさぼさになった、伸ばしっぱなしの髪。最後に切ったのは、いつだっけ。
 傷んだ髪の毛の中に、ちらほらと白髪が混じる。ここ数年で、白髪が一気に増えた。

__私、まだ三十前だよ。

 そっと自分の頬に触れた。いつも化粧なんてしない。それなのに、肌は荒れていた。
 表情筋は重力にひれ伏して、普通にしていてもむっつり顔に見える。

__私って、こんな顔してたっけ。

 目は半分くらいしか開いてなくて、口角は下がり切っている。色黒で、毛穴も目立ってて。いつの間にか新しいほくろもできている。
 着ている服もよく見れば色あせていて、襟元も少し伸びている。
 浅黒い手に、くすんだ結婚指輪がはめられている。昔はもっとツヤがあったはずだ。控えめにはめ込まれたダイヤがキラッと反射するのが好きだったのに、もうそのきらめきは、どこにもない。

 はっとして、洗面台の下を探った。そして大きめのマスクを一枚手に取ると「もう行くよ」と勢いよく言って、洗面室を出た。


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