もう一度、君に恋する方法
宿泊先は、学生の財布には嬉しい格安のビジネスホテルをとった。ビジネスホテルとはいっても設備は整っていて、最上階には市街を一望できる屋外浴場もある。
部屋自体はものすごく狭かった。ベッドが一つと小さなテーブルと椅子にポットがひとつ、そして館内の案内シートがきちんと並べて置かれている。
部屋の中は程よい涼しさで、空気も軽い感じがした。
洗濯したてのカバーのかけられたベッドに、一気にごろんとなってしまいたいところだけど、生理の身でそんな勇気もない。
初めて入るビジネスホテルの様相に感動したいところだけど、そんな余裕もなかった。ただただ、ここまで来れてよかったと、ほっとした。
所在無げに突っ立っていると、「先お風呂どうぞ」と言いながら、浩介が私の横をせかせかと通り過ぎて、クローゼットの中をごそごそとし始めた。
私はその言葉に素直にうなずいた。もう下半身が限界だった。
私は浩介が用意してくれたタオルと館内着に下着とナプキンを忍ばせて、いそいそとバスルームに駆け込んだ。
シャワーカーテンを閉めて、シャワーのお湯を目いっぱい出した。血でべっとりとした下着から解放されただけで自由になれたような気がした。
シャワーを浴びながら、下着をざざっと洗った。だけど、赤色の水がザーザーと流れていくだけで、布地に着いた血液は一向に落ちていかなかった。
多少薄まったところで、もう諦めた。もう完全には落ちない。
新幹線を降りてすぐにコンビニに立ち寄って、浩介を外で待たせてこっそりと生理用品を買った。こういう時に限って持ち合わせていないのが生理用品だ。
その後はちょくちょくトイレに駆け込んでナプキンを取り換えた。ただ生理用の下着ではないため、ナプキンを当てていても歩くたびに下着がズレ、流れ出た血をカバーしきれなかった。
下着に広がっていく血液を、トイレットペーパーも当てて何とか乗り切っていたつもりだったけど、そんな誤魔化しも、限界だったようだ。
血に染まった下着を、私はため息と共に見つめた。
この旅行のために新しく買った下着。そこには少なからず、浩介に見てほしいという気持ちもこめられていた。
そんな淡い乙女心も、血液と一緒にシャワーのお湯で流されていく。
シャワーを終えて着替えても、あまり落ち着かなかった。ワンピースタイプの館内着は、ズボンがないというだけで頼りなかった。それでも、シャワーで血を洗い流し、新しい下着と新しいナプキンに取り換えられただけで、さっきよりはうんとましになった。ただ、ペラペラの生地の下着と生理用品はやはり相性が悪く、歩くたびにふわふわと揺れて覚束なかった。
寝室に戻ると、そこに浩介はいなかった。スマホにメッセージもない。飲み物でも買いに行ったのだろうか。
真っ白でパリッとしたベッドのシーツに乗るのは、着替えてもなお、汚してしまいそうではばかられた。
結局、椅子の端の方に申し訳程度にちょこんと座った。お尻が半分も乗っていないから、これはこれで落ち着くとはいいがたいけど、少し腰を下ろせただけでもよかった。
ほっと一息ついたけど、今度は心細さが顔を出す。
無機質な空調の音が、妙に大きく聞こえた。
ドアの隙間から廊下の光が見える。そこを歩く人は一人もいないのか、まったく音がしなかった。
しばらく落ち着かない時間を過ごしていると、足音が近づいてくるのがわかった。それだけで、体に緊張が走った。息を殺して、じっとドアを見つめた。
ガチャリと鍵が開けられると、張りつめていた体がビクンと跳ねた。
ドアが開くと、浩介が大量の荷物を抱えて立っていた。
「あ、お風呂終わった?」
「う、うん。先、ありがとう。……どっか、行ってたの?」
そう言って立ち上がろうとして、やめた。血が降りてきそうな予感がしたからだ。
浩介は座ったままの私の所に荷物を持ってやってきた。そして、ちょっと恥ずかしそうに「あの、これ、よかったら」と言って紙袋を差し出した。それは私も知っている下着屋さんの、ちょっと光沢のある紙袋だった。袋を少しだけ開いて中を確認すると、そこにはもちろん下着が入っていた。ミントグリーンの下着のセットだ。
「サイズ、合うかわかんないんだけど。……今はさ、こうやってセットで買うのが主流だってお店の人が言ってて……」
浩介の話を呆然と聞きながら、私は中身をじっくりと見た。そこにはブラとショーツの他にもう一つ。同じデザインの、サニタリーショーツが入っていた。
「あ、あと、これも……」と、浩介は別のビニール袋の中をガサゴソする。その光景を、私はぽかんと見守ることしかできなかった。だけど浩介が取り出したものを見て、顔が歪むのが自分でもわかった。
「種類が多すぎて、どれがいいのかわかんなかったんだけど」
そう言う浩介が手に持っていたものは、ナプキンのパックだった。
「お店の人に聞いたら、一日目や二日目は出血量が多いからこの辺でとか。夜はこれがいいとか、多い日の昼はこれとかいろいろ教えてもらって、結局一種類ずつ買ってきた」
そう説明しながら取り出す浩介のそばで、私の頭が真っ白になっていく。
浩介の話が、全く耳に入ってこなかった。
浩介が取り出す色とりどりのナプキンのパッケージに目を奪われたまま、私は固まることしかできなかった。
「あ、そうだ。早矢香、今日着てた服どうした? 近くにコインランドリーあったから、洗ってくるよ」
言いながら、浩介は私の荷物に駆け寄って、私が無造作に置いた衣服に手を伸ばそうとしていた。その瞬間、はっとなった。真っ赤に染まって汚れた下着が、不意に頭をよぎった。
「やめてっ」
思わず大きな声が出た。その声に、浩介も戸惑うようにこちらを見て止まった。
「いいから、置いといて。洗わなくていいから」
「でも、早く洗わないとシミに……」
「いいって言ってんじゃん」
噛みつくように言いながら立ち上がった。血がどっと流れた。その感触に、顔がぎゅっと歪む。
本当は浩介の手にある衣類を奪い取りに行きたかったけど、急に立った反動でめまいがして、あきらめてその場で抵抗した。
「服も下着も、洗ったってどうせもう落ちないし、もう着れないし、そのまま捨てて帰るつもりだっただから」
言いながら、この日のために用意した服や下着の一つ一つを思い浮かべた。
目に浮かんだものが、じんわりと涙で霞んでいく。
浩介に見てもらいたくて、ほめてもらいたくて選んだすべての物。
費やした時間やお金。
浮かれていた過去の自分が、涙と一緒に流されて消えていく。
静かな部屋の中に、ボタ、ボタと無駄に大きく涙の落ちる音が響く。落ちた涙がパリッとしたシーツにしみ込んで、ふにゃふにゃとシワを作った。
「俺、やっぱコインランドリー行ってくる」
そう言って出て行こうとする浩介に、私はまた噛みついた。
「もういいって言ってるじゃん。そんなことしてももう無駄だよ。もうやめてよ、お金も時間ももったいないから。こんなことに労力使うの、無駄だから。私のことなんてほっとい……」
「無駄とか言うな」
浩介の口から放たれた低い声が、ビリビリと部屋の空気を揺らした。
普段聞かない厳しく張りつめた声に、私の涙が一瞬引っ込む。
ちらりと浩介の方に視線を向けると、私から視線はそらしてはいるものの、浩介の顔に浮かんだ表情はとても険しかった。怒っていると、すぐにわかった。
その目が私の方に、ゆっくりと向けられる。
「早矢香のために使ったお金や時間や労力に、無駄なものなんて一つもない」
そう言うと、浩介は私から顔をそらし、足早に部屋を出て行った。
扉がカシャンと閉まる乾いた音の残響と、哀れな私だけが部屋の中に置いて行かれた。
いつの間にかガクガク震えていた足がポキンと折れたように、地面に崩れ落ちた。
毛足の短い絨毯が、素足を気持ち悪く撫でる。その絨毯の上に、涙がまたぽろぽろとこぼれた。
無地の絨毯に、涙の輪がいくつも描かれていく。
しばらく泣いた。
声を出して、鼻をすすって、鼻が詰まって息が苦しくなるくらい泣いた。
永遠と泣ける気がした。
体からすべての水分が奪われるのではないかと思うくらい、泣いた。
不安で、怖くて。
そして、恥ずかしくて、惨めで、哀れで……。
そんな自分が、嫌すぎて。