もう一度、君に恋する方法
電車が揺れる音は、疲れた体には心地よく感じた。目を閉じると、瞼に真新しい記憶が映し出される。
あの後、雨上がりの道を、私たちはゆっくりと歩いた。予定していた場所のすべてを回ることなんてもちろん無理だったけど、行きたい場所へ、心の赴くままに、時間をかけて向かった。
目的地はどこでもよかった。浩介と一緒にいられたら、浩介と手をつないでいられたら、笑って話せたら、どこにいても楽しかった。
瞼に映る思い出が、すべて愛おしい。
そっと目開けて、ちらりと隣の浩介を見た。
浩介の膝の上には、中身がパンパンに詰め込まれたドラッグストアの袋が乗っている。浩介は頬杖をつきながら窓の方を向いている。寝ているのだろうかと、体を少し前のめりにして顔をうかがうと、不意に目が合った。私は浩介を盗み見ていたことを誤魔化すように、荷物を指さして話し始めた。
「荷物、ごめんね。増やして」
「お土産だと思えばいいじゃん?」
私は袋から見える洗濯洗剤や漂白剤を見て、気まずく言った。
「あの、洗濯、ありがとう」
「ああ、うん。でも、ごめん、きれいに落ちなくて。ネットで調べて、手洗いもしてみたんだけど、ズボンと靴下はだいぶとれたけど、下着の方は、落としきれなくて」
手洗いまでしてくれたんだと、さすがに申し訳ない気分になった。すると、浩介がちょっと気まずそうな声で「ごめん」と言った。
「いや、謝らないでよ。むしろ私の方が下着まで洗ってもらっちゃって……」
「それは別にいいんだよ。ただ、嫌な思い、させたから。早矢香の気持ち、ちゃんと聞かずに一人で突っ走って、勝手なことばっかしたから」
少し沈んだ浩介の目が、切なげに光った。
「その……生理のこと……、いつも何となく気づいてたけど、こういうことって、あんまり聞かない方がいいのかなって。聞いたところで、俺にできることなんてないよなあなんて思ってて。でもそれは結局、自分がそういう話をするのが恥ずかしいとか気まずかったからなんだよね。ただ、逃げてただけなんだよ」
「こんなの逃げじゃないよ。だって普通そうじゃない? 私だって、いくら浩介でも生理の話なんて恥ずかしいし。普通、カップルでこんな話しないよ」
「普通は、そうなのかもしれない。だったら俺は、普通じゃなくてもいい」
「え?」
「俺は、ちゃんと早矢香の彼氏でいたい。早矢香を守れる彼氏でいたい。笑顔にできる彼氏でいたい。口だけじゃなくて。だから、こういう買い物も、俺は平気でできる大人になりたい。当たり前にできる人になりたい。男だからできないとか、できることがないとか、そんな言い訳しかできない大人にはなりたくない。そんなんで好きな人を守れないなんて、カッコ悪いじゃん。それが普通なら、俺はそんなカッコ悪い彼氏にはなりたくない。好きな人の前では、かっこよくいたい」
浩介は言葉の一言一言に熱をこめて言ったけど、その声が急に弱々しく萎んだ。
「俺、不器用だからさ、もしかしたら、今回みたいに早矢香に嫌な思いさせたり、的外れなことして困らせたりすることもあるかもしれない。早矢香が本当にしてほしいことじゃないかもしれない。そのたびに、お金も時間も、労力も、たくさん使うかもしれない。さやかにとっては無駄なことって思うかもしれない」
「だけど……」と語気が強くなる。
「俺にとっては、何一つ無駄なことじゃない。それで早矢香のことをもっと知れるなら、ちゃんと守れるなら、笑顔につながるなら、俺はいくらでも、お金も時間も、労力もかける。だから……」
私を見つめる浩介の視線が、ぐっと熱くなる。
「無駄とか言うな」
どきんと胸がはじける。
「俺が全部、チャラにするから」
優しさと頼もしさにあふれたその瞳に、胸がトクトクと小さな音を立て始める。
その口元に、触れたくなる。
胸が苦しすぎて、思わず胸もとをぎゅっと掴んだ。
「早矢香、大丈夫? 胸、苦しい?」
「え? ああ、うん、感極まっちゃって……」
「そっか。俺はてっきり、下着のサイズが合ってないのかと思って」
「え? 下着?」
「女子の下着買うなんて初めてだからさ、どう買っていいかわかんなくて。見た目はまあ、俺の好みなんだけど、サイズはよくわかんなくて……」
浩介は気恥ずかしそうに目をそらして話す。その気恥ずかしさが伝播して、私の声もぎこちなくなる。
「ああ……下着は、全然大丈夫。すごくかわいいし、サイズもぴったりだし」
いつもピンクやオレンジ系を選ぶ私にとって、ミントグリーンは新鮮な色だった。私なら絶対選ばない。なるほど、浩介はこういうのが好みなのか。
それより何より驚いたことは、サイズだった。下着のサイズを教えるなんてこと絶対しないし、実はこっそりチェックしていたのだろうかと疑いたいぐらいぴったりサイズだった。自分で買う時だって、サイズ感がなかなかしっくりこないのに。
その答えは聞かなくても、浩介が勝手に教えてくれた。
「そっか、よかった。見た目は俺のセンスだから正直自信なかったけど、サイズに関しては自信あったから」
その得意げな笑顔と共に、浩介は何かを包み込むような手の仕草をした。恐らくそれは、無意識なのだろう。それと同時に、私は浩介が下着屋さんでどのように下着を購入してきたかを想像し直した。その手つきと、何かを思案気に想像するその表情から。
目を閉じながらいつまでもその仕草を続ける浩介に、「バカ」という小さな声を添えてグーパンチをお見舞いした。
「え? なに?」
罪のないその問いに、私はふーっと呆れ交じりのため息を吐いて、「もういい」と言わんばかりに話をそらした。
「そう言えば、浩介のおみくじの結果はどうだったの?」
「見る?」と楽し気に浩介が取り出した財布の中に、おみくじがひっそりと忍び込んでいた。
「小吉なのに、持ち帰ったんだ?」
「早矢香だって末吉だけど持ち帰っただろ? お守りにするって。だから俺も」
そう言いながら、私にくじを差し出した。
「小吉にしては、結構いいこと書いてあったよ」
差し出されたおみくじを、私はゆっくり開いて、上から順に読み始めようとしていたのに、「恋愛のとこ、読んでみ」とピンポイントで指してくる。
私はすべてを読み飛ばして恋愛欄を見た。そしてそこに書かれた言葉に、息をのんだ。
(今の相手が最高 迷うな)
「俺の彼女は、最高だって」
すぐさま浩介が横から言った。
「神様はわかってるよな」
まるで自分の親友の話を得意げにするような、自信に満ちたその表情が子供みたいで、思わずふっと笑みがこぼれた。
「あ、笑った」
何も言い返せなかった。顔がにやけるのを止めることはできなかった。
__「俺が早矢香を笑わせる」
宣言通り、浩介はもう、私を笑わせた。
「でもさ……」と言葉を続けながら、浩介は私の手からそっとくじを引き抜いた。
「神様に言われなくても、迷うなんてこと、あるわけないのにな」
電車の明るいライトが、浩介の手元のおみくじを煌々と照らした。