もう一度、君に恋する方法
5、真っ黒な設計図


 茶色の封筒から出てきたおみくじに、何度も何度も目を走らせた。そのたびに、あの日の思い出がよみがえって、あの日の浩介の表情が浮かんで、自然と頬が緩んだ。まるでそのおみくじに、あの卒業旅行のことが克明に刻まれているようだった。

__あなたが笑えば、周りもまた、明るくなる。

 当時は読むたびに胸が熱くなって、顔がにやけて困ったほどなのに、今読み返すと、胸がぐっと詰まって苦しくなる。

 おみくじを畳む指先に、思わず力が入った。
 封筒に戻すと、思い出ボックスに入れた。その辺にあふれて散らばった手紙も、丁寧に片付けた。そして、そっと閉めた。
 切なさも、愛おしさも、すべての思い出との別れを惜しむように。
 そして私はおもむろに立ち上がって、再びスーツケースに手をかけた。

__浩介、ごめん。私なんかが奥さんで、ごめん。

 颯太も俊介も、ごめん。こんなひどいお母さんで、ごめん。上手に育てられなくてごめん。いつも笑顔で、優しくて、きれいなお母さんじゃなくてごめん。

「ごめん」という言葉を頭の中で連呼するたびに、涙がぼわぼわぼと湧き上がって、あっという間に視界をぼやけさせた。涙がたまって一気にあふれ出すのに、時間はかからなかった。

 理想の家庭。理想の夫婦。理想の奥さん。理想の母親。
 それらを称賛する賞が、いつの間にやら世の中にはあふれていて、その授賞式のニュースを目にするたびに、「これが理想の……」と、私もその輝かしい姿に目を奪われた。
 いつも仲良しで笑顔の夫婦。優しくてかわいらしい奥さん。家事も育児も仕事もこなす、強い母親。
 そこに映る人たちは確かに輝いていて、お手本のような、まさに理想的な人たちばかりだった。

 今朝見たワイドショーのママタレントもそう。
 私は彼女に悪い印象しかなかった。SNSに映る姿は広告用で、実際はこんな感じではないと。あんな見た目で、あんな爪で、家事や育児ができるわけないと。家のことは売れない芸人の旦那任せで、自分は好き勝手やって。旦那は旦那で自分の名前を売り出すために彼女を利用して、彼女もまた旦那を利用できるだけ利用して。そんなイメージを勝手に抱いていた。
 だけど今朝、紹介される一枚一枚の写真を見つめる彼女の目は、正真正銘、家族を愛する母親だった。そして夫となった彼に、変わらず恋する女性だった。SNSの中の彼女とテレビに映る彼女、そして私の目に映る彼女は、すべて等身大の彼女だった。
 そんな彼女に、ひねくれた勝手な妄想で嫌悪感をあらわにしていた。ネットに好き勝手踊る悪口と同じくらい、醜い妄想や想像を膨らませて彼女を毛嫌いしていた。
 どうしてそこまで彼女を敵視するのか。その理由は、もう明白だ。
 そこに映る彼女の幸せが、私の理想の幸せだったからだ。うらやましいからだ。私が手に入れられない理想を、彼女が手に入れているからだ。
 私だって、そうなりたかったよ。幸せに、なりたかったよ。幸せにしたかったよ。でも私には、無理だった。できなかった。
 理想は所詮、理想。理想を叶えられる人は、限られた人だけ。
 誰かのために笑える人。強くて優しい人。そしてみんなの心の靄をさらって明るくできる人。私は、そういう人間じゃない。

 大好きな人の優しさも、無下にしてしまう。感謝もできない。心無い言葉で相手を罵って、傷つけたことにも気づかない。相手の言葉や行動を素直に受け取れない。そんな私が、理想を手に入れられるわけないではないか。

 鼻を一度ずずっとすすってから、段ボールの隙間に挟まったスーツケースを勢いよく持ち上げようとした。だけど、スーツケースを持ち上げた瞬間、頭から血の気がさっと引いて、視界が白んだ。
 スーツケースを持ち上げたまま体がよろめいた。その時、何かを踏んだ。素足にツルツルとした感触を受けたと思ったら、そのままずるりと足が前方向に滑っていく。足元で何かがバラバラに散っていくイメージがスローモーションで頭の中に浮かぶ。


__「迷うなんてこと、あるわけないのにな」


 あの時、電車の中で浩介が言った言葉が、ふと脳裏をよぎった。
 あの時の私たちは、まだ知らなかった。考えもしなかった。
 私たちの関係に、「迷い」が出てくるなんて。
 こんなに苦しむことになるなんて。
 あんな風に言った、浩介でさえ。

 スローモーションが解除されたと同時に、私は尻もちをつく形で、床にものすごい衝撃と共に倒れこんだ。


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