もう一度、君に恋する方法

 息子二人が通う幼稚園は、自転車で十分ほどのところにある。十分と言っても、夏の十分は地獄のような時間だ。
 ぎらついた太陽が、すでに地面を焼き始めている。帽子を目深にかぶるだけでは、その強い陽射しに対抗できない。
 子どもたちを園舎まで送り届けて、太陽がさらに高さを増した炎天下を、また十分かけて帰る。

 家に帰りついたのは、九時過ぎだった。
 マスクをしているのも手伝って、顔中から汗が噴き出していた。よれたTシャツも色あせたズボンも肌に張り付き、その中の下着も汗だくだった。

 玄関の扉を開くと、廊下にはかすかに冷気が漂っていた。リビングの扉が開けっぱなしになっている。
 よろよろと部屋に入っていくと、涼しさと同時に、その凄惨な光景が目に飛び込んできた。

 キッチンとダイニングとリビングが一続きになった広い空間は、入った瞬間にその全容を見渡すことができた。
 うちには家政婦さんもいなければ、小さな妖精さんがいるわけでもない。よって、家を出た時と何ら変わらない状態が見事に保たれている。

 キッチンの流しには、朝使ったキッチンツールや生ごみやトレーが放り込まれ、調理台の上のまな板は、菌が絶賛増殖中だ。
 ダイニングテーブルの上も、もちろんそのまま。飲みかけの牛乳。ふりかけ色に染まったご飯。米粒とおかずでカピカピになった茶碗。いろんな液体で描かれた点々や輪。指先をこっそりテーブルで拭った跡だって、バレないとでも思っているのだろうか。
 床全体を見渡すと、干からびたご飯粒や、いつ食べたかもう記憶にない納豆も落ちている。
 クレヨンや折れた色鉛筆の芯をひきずってこすった跡。丸まったり破れたりしている紙類は、ゴミなのか、はたまた作品と呼ぶべきものなのか、私には判断しかねる。

 覚束ない足取りでソファに座りこもうとすると、そこには何日もたたまれることを待つ洗濯物が山となって占拠している。もう構わずその上にダイブする。

 そっと目を閉じた。
 静かだ。
 このまま眠れそうだった。
 涼しいし、洗濯物の上も、意外と気持ちいい。
 うずたかく積みあがった洗濯物が、首元に丁度いい高さの枕を作る。

 目の前のローテーブルに置かれたリモコンを、腕を伸ばして指先で手繰り寄せてテレビをつけた。ワイドショーが見放題の時間だ。ただ順番にチャンネルを変えていくけど、見たい番組は、特にない。
 最終的に、いつも何気なくつけている番組に行きついた。
 番組内では、今人気のママタレントがコメントをしているところだった。年齢は私と同じくらい。もともとすごく売れていたアイドルで、バラエティ番組でも昔から活躍していた。確かお笑い芸人と結婚して、格差婚なんて話題になった。それがきっかけでよく夫婦そろってテレビに出ているのを見る。
 子育て中のSNSも人気で、ファッション情報はもちろん、子育て情報や私生活なんかも発信している。
 芸人の旦那が育児に奮闘している様子、一緒に家事をする様子、親子で出かけているプライベートショット。手作りのかわいらしい凝ったお弁当。旦那と子どもの、絵になるカメラショット。
 コメンテーターとして活躍しだしたのは最近だ。いつもママ目線の等身大のコメントが聞けて、芸能人なのに親しみを覚えると好評だ。

 ちょうど子育てに関する話題だったらしく、彼女は身を乗り出して相づちをうったり、せわし気に表情を変えていく。

「そうなんですよ。それって子どもあるあるですよね。うちもそういうことやるんですよ。みんな悩むポイントなんですよねえ。わかるぅ」

 途中から見始めたので何の話をしているのかわからないけど、品のない少々乱暴な話し方は、共感しているはずなのに、どこかバカにしているようにも聞こえた。コメントも中身が空っぽで、うわべだけの意見に聞こえる。

「うちは今一歳八か月と三歳なんですけど、もう子育ても落ち着いて、だいぶ手も離れてきたんで。赤ちゃんの時が懐かしい」

 そのコメントに、重たかった瞼が一気に持ち上がった。

 一歳と三歳で子育てが落ち着いたって、どういうことだ。
 赤ちゃんの時が懐かしいって、一歳はまだ赤ちゃんでしょ?

「はあ?」という口の形をしたまま顔を歪めていると、司会の男性が爽やかな笑顔と共に話を振った。

「なんでも旦那さんが家事と育児に非常に協力的だとか」

「そうなんですよー」と彼女の口から甘ったるい声が上がる。
 そしてまるで図ったかのように、その声と同時くらいにモニターに二人の密着写真が映し出された。その映像を見て、彼女は「あははー」なんてちょっと照れながら笑って手をたたいている。

「ほんとうちの旦那は家事が完璧なんですよ。子育てにも積極的に参加してくれるし。おむつ替えも率先してやってくれるし。ほんと彼がいないと、私は仕事も続けられなかったと思います。チョー感謝してます。ほんと旦那がいないと困りますもん。心強いパートナーですから。もう絶対的な信用置いてるんで」

「まあ仕事も頑張ってほしいですけどね」と言って、周りの笑いを誘った。

 テレビから聞こえる笑い声を遠くに聞きながら、ぼんやりと天井を仰ぎ見た。
 そこに思い描いた、理想の夫。 

 私の夫が、心強いパートナーだったら、絶対の信用を置けるような人だったら、何もかも上手くいったのだろうか。家事も、子育ても。
 いつも笑顔でいられただろうか。周りを明るくできただろうか。良いお母さんに、なれただろうか。いい奥さんに、なれただろうか。

 クーラーの風が、私を慰めるように、汗で額に張り付いた前髪をさらさらとはがしていく。体中にへばりついたTシャツの汗がスーッと引いて、皮膚からはがれていく感じがくすぐったい。その心地よさと、テレビから間断なく流れてくる音に、瞼が重くなる。ソファに沈む体が、さらに深く沈んでいく。

 家の中の凄惨な様子がちらりと頭をよぎった。

__少し休憩したら、始めよう。

 そう思って、ほんの少しだけ、目を閉じた。


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