もう一度、君に恋する方法
人一人分のスペースのフェンスのない狭い歩道を一列になって無言で歩いた。歩道のほんの数センチ先を、車がかすめるように通り過ぎていく。
私は少し距離を開けて、浩介の背中を追った。
時々通る車のライトに照らされた背中からは、寂しさしか伝わってこない。
その背中に、そっと触れたかった。力なく落ちるその手を握りたかった。指先にだけでもいい、触れたかった。
手を伸ばしかけたその時、
「別に、いいんだけどね。離婚なんて」
浩介が、唐突に話し始めた。だから私は、伸ばした手をさっと下げた。
「俺も就職したし、もう親に頼るような歳でもないし。子育てが終わったんだから、両親の自由にしたらいいんだし」
浩介は前を向いたまま、淡々と話した。
「でも、離婚、しなきゃいけなかったのかな?」
誰に聞くでもなく、浩介はぽつりとそう言った。
「仲の良い家族だったと思うよ。母さんは優しいし、父さんは家族思いだし。俺も姉ちゃんも反抗期なんてなかったと思うし。休みの日は家族で出かけて、イベントごとだってみんなで楽しくやってた。父さんと母さんは、家事も育児も協力してやってたし、俺たち姉弟にも、自由にやりたいことやらせてくれた」
浩介の懐かしむような声は、響いたそばからすぐに消えてしまいそうなほどか細かった。
「自慢の家族だった。両親は理想の夫婦だった。俺も、将来こんな家庭が築けたらなって、本気で思ってた」
首の傾き加減で、浩介の顔が少しだけ空を仰いでいるように見えた。ぽつりぽつりと吐き出される声は明るいのに、その言葉のどれにも、寂しさがこもる。
「はじめに聞いた理由はさ、もう子育てが終わったから、だった。親としての責任を果たすまで、離婚はしない方がいいって考えたんだって。両親の離婚が子どもの心に与える影響みたいなのを考えてたらしいよ」
浩介は何が可笑しいのか、笑って言った。
「でもさ、子育てが終わったからって、離婚する必要なくない?」
今度はその笑いの中に、震える寂しさが含まれていた。
「そう聞いたらさ、夫婦でいる理由もないって、言い返された。家族でいる理由もないって」
浩介の声のトーンが、ぐんと落ちていく。
「結局、もう、気持ちがなかったんだよ」
「え?」
「お互いを思いやる気持ちも、愛情も。もうずっと前から。あるのは、親としての責任だけ」
「そんなことないよ。だって、浩介の話聞いてると、ほんとにいい家族なんだなってわかったし。河瀬先輩も……」
「そういうのがあったから、なかなか離婚に踏み切れなかったんだよ。近所の人にも、友達からもよく言われてたからね、良い家族ですねって。理想の家族だなって。結局、世間体とか見栄なんだよ」
そう言う浩介の声には、彼には決して似合わない、憎しみみたいなものを感じた。その声が、私の胸をぐっと締める。
「ま、そんな理由だけで夫婦関係続けて、一緒に暮らしてるって方がすごいと思うけどね。それに、そんなバカげた責任とやらでここまで育ててもらったことには感謝してるし」
先ほどとは声の雰囲気を変えて落ち着いてそう話す様子は浩介らしいけど、発せられるその言葉は全然浩介っぽくなかった。穏やかなその声は、とても冷たい。
「姉ちゃんはさ、意外とあっさり受け入れてたよ。二人の好きにしたらいいんじゃないって? きっと、気づいてたんだろうな。そういう両親の違和感に。この家族の実態に。もう気持ちがなくて、愛情も、思いやりもないことに。姉ちゃんは、頭が良いから。勘もいいし、俺みたいに、ぼうっとしてないから。俺だけが、何も気づいてなかった。仲の良い家族だの、理想の夫婦だの言ってのぼせ上っていたのは、俺だけだったんだ」
浩介はいったん立ち止まって、空に向かってふーっと大きく息を吐き出した。まるで、夜の闇に心の荒々しさを隠して、乱れる呼吸や心を密かに整えるようだった。冷静さを保つような仕草に見えた。
「俺が理想としてきた家族は、偽物だった。憧れてた夫婦は、まさかの仮面をかぶってた。みんなで笑って、みんなで支えあって乗り越えてきた思い出は、全部幻だった。でも、それならそれでよかったんだ。嘘なら嘘のまま、つき通してくれたらよかった。結婚っていいなって、そんな憧れや理想を見続けさせてくれたらよかったのに。その実態がこんな現実だったって見せつけられるより、嘘や仮面で隠してくれたままの方が、よっぽどよかったよ。それなのになんだよ。子育てが終わったらあっさり離婚なんてさ。子どもに夢持たせたんだから、責任取れよ。どんな夫婦実態であろうと、子どもには最後まで隠し通すのが親の務めだろ。子どもの前でだけ仲良くしてたらそれで済むことじゃん。離婚なんてする必要ないじゃん」
あふれる動揺も荒々しさも隠しきれなくなった浩介は、そこまで早口で言い切ると、打ちひしがれるように最後にぽつりと言った。
「離婚なんて、してほしくなかった」
包み隠されることなく吐き出された本音が、私の胸を切りつけて痛みを残す。
「そしたら早矢香とも……」
「……え?」
「早矢香、ごめん」
そう言って、浩介は私の方に振り返った。薄暗闇に浮かぶ浩介の表情ははっきりと見えなかったけど、その中から聞こえてくる声は、私の胸をざわざわと落ち着かなくさせる。
「高校生の時、早矢香に結婚を匂わせるようなこと言っておいて、その気にさせといて、ほんと申し訳ないけど、俺、早矢香とは、結婚できない」
「……へ?」
「自信、ないんだ。結婚して、家族を作っていくことも、子供を育てることも。早矢香を、幸せにすることも。俺には、無理だ。だから……」
その続きの言葉を、私はすでに青ざめた表情で待った。
「別れてほしい」
恐れていた言葉が、明言された。
「ほんとはあの日、ちゃんと言わなきゃいけなかったんだ。もっと早く言わなきゃいけなかったんだ。そもそも、もっと早く気づかなきゃいけなかったんだ。自分の家族の実態に。そうすれば、早矢香に告白することもなかった。早矢香は俺と付き合うこともなかった。告白する前に、早矢香をあきらめることもできた。それなのに、俺が理想を追いかけたから。早矢香となら、きっと上手くいくって。うちの両親みたいな、うちの家族みたいな、俺が理想とする家族に、早矢香とならなれるって思ったから。なりたいって思ったから」
感情をむき出しにしていく浩介を前に、私の足は情けなく震えていた。
何か言い返さなければいけないと思った。そうじゃなきゃ、私たちはここで終わる。だけど、思う様に言葉が出てこない。
恐い。こんな、寂しげで壊れてしまいそうな浩介を、私は見たことがないから。
浩介を支えたい。それが私の生き甲斐。
そんな風に粋がっていたのに、今私は、こんな壊れてしまいそうな浩介を前に、何もできないでいる。何も言えないでいる。むしろ震えて戸惑っている。
ようやく見つけた言葉は、
「浩介の両親のことが、私たちと何の関係があるの? それだけで別れるとか、意味わかんない。私たちは私たちの形を見つけていけばいいじゃん」
と、何ともありきたりな言葉だった。
自分で言いながら、そんな言葉が今の浩介を救えるとは思えなかった。実際浩介は、私のそんな言葉で気持ちを取り戻すことはなかった。
「わからないんだよ」
沈んだ顔からぽつりと放たれた。
「俺には、わかんないんだよ。わかんなくなっちゃったんだよ。家族って何なのか。だって、俺が理想としていた家族や夫婦は、全部嘘だったんだよ。もう何を信じていけばいいのか、わかんないんだよ。そんな俺が、どうやって早矢香を幸せにしたらいいんだよ? どうやって早矢香と家族になったらいいんだよ。早矢香だって不安でしょ、こんな嘘つき家族の中で育った俺と結婚なんて。家族になるなんて」
「そんなこと……」
「それに、怖いんだ」
「怖い?」
「いつか、早矢香も同じように……」
ぐっと声を詰まらせながら言う浩介に、私もすかさず「私はそんなことしないよ」と声をかけるも、「わかってるよ」と、悲痛な声が鋭い刃のように私に向けられる。
「わかってるよ、そんなこと。早矢香はそんなことしないって。そんな人じゃないって。でも、何度も考えちゃうんだよ。早矢香もいつか、俺から離れてしまうんじゃないかって。愛情も信頼もなくなって、それを俺だけが知らずにのうのうと生きて、ある日突然、いなくなっちゃうんじゃないかって」
「そんなの考えすぎだよ。私は絶対浩介のこと……」
「なんでそんなことが言える? 絶対なんて」
浩介の鋭い声に、体が後ろに押される。その圧に対抗できない自分が情けなかった。浩介の問いに対する答えがすぐに口から出てこないのが悔しかった。
__私を信じてよ。
__私は浩介のこと、ずっと好きだもん。
そんなこと、言えなかった。そんな言葉は、今の浩介の前では何の意味も持たないのだ。今の浩介には。結婚という現実の箱の中身を開いてしまった浩介には。
話を聞いただけの私でさえ、突きつけられた現実にひるんだ。結婚は、ロマンでも理想でも憧れでもない。現実なのだと。実生活なのだと。それを実際に突きつけられた浩介の気持ちを思えば、「好き」だの「信じて」だの、そんな軽々しい言葉は言えなかった。
「ごめん」
もわりとした夏の夜の空気の中を、浩介の弱々しい声が火の玉のように浮遊して私の耳に届く。
「ほんとごめん、俺なんかと付き合うことになって。俺なんかと、六年も一緒にいさせて。高校生に遠距離恋愛なんかさせて。ほんとはもっと近くで、同級生と恋愛したかったよな? 大学も地元に近いとこに通ってさ。ほんとは家族や友達と一緒にいたかったよな? 寂しかったよな? 全部俺のせいだ。高校生の子供みたいな俺が、結婚なんて軽々しく言ったから。結婚の現実も知らずに。こんな家族ごっこの家庭で育った俺が、そこで植え付けられた理想に早矢香を引きずり込んだから。縛り付けたから。ほんと、ごめん」
浩介はそう謝り続けた。力なく、うなだれるように。そして最後に、こちらを向いて言った。
「早矢香には、もっと良い人が現れるよ。早矢香はかわいいし、しっかり者だし、優しいし。早矢香にふさわしい人が、きっと、早矢香のこと、幸せにしてくれるよ」
浩介は笑顔で言った。その笑顔に、私は寂しさしか感じなかった。