もう一度、君に恋する方法

 今しがた別れ話を終えた私たちは、今どこに進んでいるのだろうか。

 すっかり日は暮れて、辺りは暗い。
 目の前の浩介の背中が、ゆらゆらと揺れるのが辛うじて見える。
 藍色の空にはうっすらとした雲が何重にも重なっていて、星も月もその雲に隠れて、ぼんやりとした頼りない光を落としている。
 まるで雲の合間から、私たちの様子を気まずように覗いているみたいだ。

 何も言わない浩介の後ろを、私も何も言わずに歩いた。
 浩介の別れ話に対して私が返事をしていない分、首の皮一枚つながっている状態なのだろうか。わからない。
 それなのに、空気を読めない腹の虫が奇妙な音で空腹を伝えてくる。
 私は視線だけで浩介の背中を見つめた。

__私、本当に今から浩介とご飯を食べに行くのかな。

 そんな雰囲気ではないのは明らかだ。そもそも、別れ話スレスレのシリアスな話をしたばかりの相手と、まともにご飯が食べられるのか。想像しただけで、気が滅入る。一体どんな顔して食事をしたらいいのだろう。


__私、本当にこの人と一緒に帰るのかな……


 ふと、いつかの思い出が、不意に記憶の中から飛び出してきた。
 この居心地の悪さ。確かに一度、感じたことがある。あの時は、そう、私が話した。中学の部活の苦い思い出話を。
 その日初めて会った、水野先輩に。
 その日のことは、すっかり思い出となって記憶の片隅に静かにしまい込んであったはずなのに、次から次へと、あの日の私たちが鮮明に脳裏に蘇る。
 二人の声も、表情も。あの曲も、あの言葉も。

__「そんなの、塗り替えたらいいじゃん」

 その言葉が、今の私の胸に、何の曇りもない、はっきりとした声で響いた。あの頃と変わらない、先輩の声で。

 あれが、私たちの始まりだった。そこから私たちは始まった。
 先輩を好きになって、付き合い始めて、名前で呼び合えるようになって、初めて旅行に行って……。

 こんな時だというのに思わず頬が緩んだ。だけど、すぐに肩の力と共にその微笑みは落ちていった。

 塗り重ねてきた鮮やかな思い出の色に、月も星も見えないこの夜の闇のような真っ黒な色ペンキがさあっと塗り重ねられる。形もいびつになって、今にも真っ二つに割れてしまいそうなヒビが入った小瓶。
 もう、修復不可能なのだろうか。
 塗りなおせないのだろうか。

 真っ暗で、もはや車道か歩道か判別できない道中で、頼れるのはぽつぽつと光る街頭だけだった。そこに突如として現れたまばゆい光に、思わず顔を上げた。
 その光が照らしていたのは、大きな大きな看板だった。
 看板の四隅のライトが、中央に仰々しく書かれた文字を照らしている。そこに書かれていたのは、難しい漢字の神社名だった。「神社」という文字だけが読み取れた。神の社の表札に相応しい、神々しさがあった。
 その看板のすぐ近くに、鬱蒼とした木々たちを従えるように、古くて大きな鳥居がそびえたっていた。その鳥居を、口をぽかんとさせながら見上げた。
 生暖かい風が、すーっと神社の方に吸い込まれるように流れていく。まるで声をかけられたみたいで、私は思わず立ち止まった。
 目を凝らせば、その奥に本殿を見つけることができた。こんな時間だというのに、誰かが本殿に向かって手を合わせている。その背中に、すっかり懐かしくなってしまった思い出がまた引き寄せられる。

__「神様の前で、嘘はなしだ」

 ふっと頭に聞こえてきた声は、優しくて、穏やかで、自信に満ちて、どこまでも愛おしい。
 懐かしい胸の震えに、息がつまる。

「卒業、旅行……」

 絞り出すように、小さな声が不意に漏れた。そのかすかな声を、浩介は拾い上げて「え?」と振り返った。
 その優しさの隙を、私は見逃さなかった。こちらを振り向きかけた浩介の手をがっしりと両手でつかんで、それを逃がすまいと、しっかりと浩介の目を見据えて言った。

「卒業旅行、連れてくって言ったじゃん」

 神社の看板を照らすライトの光が、うろたえる浩介の表情を映し出した。

「お金貯めて、贅沢な卒業旅行にするって言ったじゃん。神様の前で誓ったじゃん。俺が連れてくって、言ったじゃん。それなのに何なの? 他の人って誰よ。他に誰が私を卒業旅行に連れてってくれるの?」

 自分でもびっくりするぐらい、大きな声が出た。だけど構わず、私はその声量で続けた。

「神様の前で、嘘はなしなんじゃなかったの?」

 私の目と言葉から逃げるように、浩介は目をそらした。

「……ごめん」

 ただ、それだけ言った。そのうなだれた弱々しい姿に、私は容赦なく同情しなかった。むしろ、腹立たしさが湧き上がった。

「笑わせるって言ったじゃん」

 私の言葉に、浩介の目元が小さくピクリと反応する。

「俺が早矢香を笑わせるって言ったじゃん。他の人じゃダメだって、俺が笑わせるんだって。だったら笑わせてよ。私だって、他の人じゃダメなんだから。浩介に笑わせてほしいんだから。浩介と笑いたいんだから。早く笑わせてよ。神様の前で、嘘はなしだって言ったじゃん。守れないやつは嘘つきじゃん。笑わせなきゃいけないのに、なに泣かせてんのよ。もうこのバカヤロー」

「えーん」なんて言いながら、私はへなへなとその場に座り込んだ。それを支えるように、浩介も一緒に座り込む。その肩を、私はグーで何度もたたいた。

「他の人とか言うな。私は、浩介じゃなきゃダメなんだから。浩介のお嫁さんじゃなきゃ、嫌だから。無理とか言うな。自信ないとか言うな。他の人見つけろとか言うな」

 そんな私の勢いも説得も空しく、浩介はなおもしぶとく「でも……」と顔の真ん中に深い皺を作る。私は涙で濡れて落ちかけた視線を、キッと浩介の方に向けた。

「そんなの、塗り替えたらいいじゃん」
「……え?」
「理想の家族も、理想の夫婦も、私と浩介で、塗り替えちゃえばいいじゃん。二人の色に変えちゃえばいいじゃん。楽しくやっちゃえばいいじゃん。変な色になってもいいじゃん。塗り直してだめなら、そんな小瓶、ぶっ壊して、もう一回作り直したらいいじゃん」

 浩介が、あっけにとられた表情をして私を見ている。

 何を驚くことがあるんだ。だってこれは……

「水野先輩が、言ったんじゃないですか」

 震える声で、私は浩介に伝えた。泣くことに力を使い果たした私の頭上に、柔らかな笑みが落ちる。

「ぶっ壊せなんて、言ってないけどな」

 笑ってる。浩介が、笑ってる。

「でも、それも、いいかもね」

 雲間から月明かりがふわりと広がった。その光は、看板のライトよりも優しく、柔らかく、だけど、とても明るかった。


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