もう一度、君に恋する方法
6、白黒の告白
「早矢香……早矢香……」
名前を呼ばれたような気がして、重たい目を何とか持ち上げた。コンタクトが乾いて張り付いてしまった視界の中で、ぼんやりと人影を認めた。
視界と意識がだんだんと明瞭になるにつれ、その輪郭をくっきりと捉え始めた。
「……浩介」
私のそばには、今日出張で帰ってこないはずの浩介がいた。
体を起こそうとすると、頭がぐらぐらと揺れた。
「痛ったー……」
「大丈夫? どこか打った?」
私の体を支えるように肩を抱きながら、浩介が心配そうな声で尋ねた。
「びっくりしたよ。帰ったら颯太と俊介しかいないし。こっち来てみたら早矢香が倒れてるし」
「まさか朝からずっとここに引きこもってたわけじゃないでしょ?」なんて冗談を、呆れ顔で言った。そこには安堵の表情がうっすらと浮かんでいた。
「ここ暑いし、リビングに移動しようよ。今日は暑かったし、アイス買ってきたんだ。一緒に食べよ」
そう言いながら、浩介はそばに置いてあったビニール袋をひょいと持ち上げて私に見せた。そしてもう片方の手を私の目の前に差し出して、立ち上がらせようとした。だけど私はその手を取らなかった。そのかわり、不機嫌な声がその手を跳ねのけた。
「なんでいるの? 出張は?」
「ホテルはそのままにして、最終の新幹線あったからとりあえず飛び乗った。朝イチで出ないといけないんだけど、勝手に出てくし、ゆっくり寝てなよ。明日から夏休みでしょ?」
「私は『何でいるのか?』って聞いてるの。もしかして、わざわざクレジットカード返しに来たとか?」
「んー、まあそれもあるけど……」
と浩介は気まずそうに頬を掻いた。
「生理、来た?」
「……え?」
「そろそろかなって思ってたんだけど」
浩介は気恥ずかしそうに目をそらして言った。だけど次には申し訳なさそうにしゅんとしながら「こんな時に出張で、ごめん」と、頭を下げた。
「もしかして、そんなことのために帰ってきたの?」
「そんなことって、大事なことじゃん」
浩介は唇を立てて私に抗議した。だけどすぐにその顔を心配そうな表情に変えて、私の顔のぞき込みながら言った。
「体、大丈夫? しんどくない?」
声をかける浩介に、私は何も返さず、ただ茫然としていた。
「あ、そうだ。忘れないうちに、これ」
そう言って、のん気に財布からクレジットカードを取り出して私に差し出してくる。
「ほんとごめん、勝手に持ち出して。ちゃんと伝えてなくて」
私はそっと、そのクレジットカードに手を伸ばした。指先は震えた。伸ばしたその指先を、ぎゅっと隠したくなるぐらいに。だから、ぐっとこぶしを作ってその手を引っ込めた。
「何やってんのよ?」
「え?」
「バカじゃないの? こんなのどうでもいいよ。生理なんてどうでもいいよ。こんなことで帰ってこないでよ。出張費は出ても、この往復交通費は出ないでしょ? それなのにアイスまで買ってきて。どうせレジ袋も買ったんでしょ? お小遣い少ないんだから、無駄遣いしないでよ。生理なんて大したことじゃないんだから、心配なんかしないでよ。気にしないでよ。ほっといてよ。大体生理じゃなかったらどうすんのよ。お金も無駄、時間も無駄。何もかも無駄じゃない」
言いながら、涙があふれた。浩介の行動にほとほと呆れ果てて悲しくなったからじゃない。素直に、「ありがとう」と言えない自分が情けなくて、ほっとしてるのに強がっている自分に呆れているからだ。
思い出を振り返って、あれだけ反省したのに、何も変えられない自分に幻滅しているからだ。
「なんでよ……」
「え?」
「なんで私なんかに優しくするのよ? イライラして、怒ってばっかで、手伝っても「ありがとう」の一言も言わない。ひどいこと言っても「ごめんね」も言わない。嘘でも笑えない。優しくも強くもない。倉庫に閉じこもって泣いてばっかりの私に、いい加減、愛想尽きるでしょ。もうやめてよ。そんな優しさ振りまかれたら、こっちだって惨めだよ。浩介だって、惨めでしょ? 何もかも無駄だって、思うでしょ? 優しくしたって、どうせ文句しか言われない。笑いかけても睨まれる。だったらもう、何もしない方が良いじゃん。私になんて、優しくしなくても……」
情けなく声が涙で沈んでいく。嗚咽を上げながら叫ぶ姿は、さぞ惨めったらしいだろう。それも泣けてくる原因だ。
私は、私が嫌いだ。消えたい。ほんと、この場から、浩介の前から、消えてなくなりたい。
こんな姿、見せたくない。見てほしくない。
「無駄なんかじゃないよ」
自分への嫌悪に押しつぶされながら、鼻を大袈裟にすする音の中に、その雑音とは正反対の穏やかな声が、強い響きをまとって耳元に届いた。
「別にいいじゃん、違ってたって。何事もなかったんなら、それで。それより、無駄にするっての言うのはさ、いつまでもここにいて、おいしいアイスを溶かしちゃうことじゃない?」
そう言いながら、浩介はコンビニの袋をカサリと掲げた。
「ちょっといいやつ買ってきたんだあ」とどこか浮かれ気味に見えた。
「交通費なんてさ、レジ袋代なんて、俺が働いてチャラにするよ」
「……え?」
「ついでに、今日のポイント分も」
その言葉からあふれる懐かしさに浸ってぼうっとする私の横で、「それよりさ、これ……」と浩介がのそりと腕を伸ばして、何かを手に取った。
浩介が手にしたものは、一枚の紙ナフキンだった。そこでようやく、私は辺りを見渡した。
そこには、倒れた私を取り囲むように、何枚もの紙ナフキンが散らばっていた。その一枚を、私も手に取った。
少しだけしわになっていた。足元に落ちているものに目を走らせると、破れているものもある。
そこで、状況を把握した。
私が足を滑らせたものは、これだったのか、と。
「なんか、懐かしいな」
その言葉を聞きながら、私はしわくちゃになった紙ナフキンの文字を読んだ。
理想の家庭、理想の両親、理想の夫婦、理想の子育て。
浩介が書いた文字を見るだけで、あの頃の私たちの声が今にも聞こえてきそうな気がした。
あの頃に里帰りしたような、懐かしい気持ちになった。
少し遠くの方に落ちていた紙ナフキンを、指で手繰り寄せた。それは、浩介がすらすらと描いてくれた家の間取り図だった。
その紙ナフキンは、無残にも破けていた。端の方で何とかつながっている状態だ。
浩介の文字が、半分に切れている。それを見ただけで、胸が張り裂ける痛みを覚えた。
私はその紙を手にしたまま、おもむろに立ち上がってフラフラとリビングに向かった。そしてそこに広がる光景を見渡した。
__これが、私たちの理想の家?
ぐちゃぐちゃになったリビング。ありあわせの食器に並ぶ、買ってきたお惣菜。立つだけでイライラするキッチン。洗濯を干すときにしか開けない、庭に面した大きな窓。私の怒鳴り声が響く吹き抜け。「ただいま」も「おかえり」も、「おはよう」も「ありがとう」も、何も聞こえてこない空間。
__これが、理想の……
「早矢香?」
そばに近づく呼びかけに、私の声が震えながら答えた。
「ここに、私たちの理想は、どこにもないね」
自虐的に笑って言ったつもりだった。だけど、次から次に目に飛び込んでくる、描いた理想とはかけ離れた惨状に、じわじわと涙がこみ上げてくる。その涙をこぼすまいと、私は天を仰いだ。そこには、ただただ高いだけの天井が広がっている。
「あるよ」
仰いだ先の吹き抜け空間に、穏やかな声がふわりと響いて、私の頭上に、ゆっくり、さらさらと、その残響を落とす。
ゆっくり振り返ると、浩介の穏やかな目と出会った。
「だって、早矢香がいるんだもん」
「もうそういうきれいごとは……」と咄嗟に否定するのを遮るように、「忘れちゃった? 俺の理想」と浩介の声が重ねられる。
__浩介の、理想……
その時、私の記憶の中からそっと飛び出す浩介の声と、目の前の浩介の声が重なって聞こえてきた。
「早矢香がいてくれる家が、俺の理想の家。早矢香と描く幸せが、俺の理想の幸せ」
胸が、きゅっと締め付けられて痛くなった。それなのに、どうしても否定したがる自分に抗えない。
「私がいたって、幸せになんてなれないよ。だって私、何もできてないもん。家事も子育ても、まともにできてない。怒ってばっかりで、傷つけることばっかり言って。今日も、颯太にひどいこと言った。俊介を突き飛ばした。やっちゃダメだってわかってるのに、これ以上言っちゃダメだってわかってるのに、自分を抑えられない。浩介にだって……」
喉元がぐっとつまって言葉が続かなくなった。それでも浩介は、私の話に黙って耳を傾け続けた。
「私は、理想の奥さんにもなれない。理想の母親にもなれない。理想の家庭も築けない。私には、無理なんだよ。誰かを幸せにするなんて。誰かを笑顔にするなんて」
私の泣きじゃくる声が、吹き抜けの高い天井に空しく放られていく。
これが、浩介の理想だというのか。
こんな私といることが、浩介の幸せなのだろうか。
静かすぎる空間の中で、私たちはどうすることもできないでいた。
私はただ泣き続け、浩介はただ、黙っていた。
そうかと思ったら突然、浩介がふいっと踵を返してすたすたと倉庫に戻っていった。
しばらくすると、ビリっ、ビリっと勢いよく何かが破かれる音が聞こえてきた。
まさかという予感に、私はものすごい速さで倉庫に走った。
目に入った光景に、血の気がさっと引いた。
浩介はしゃがみ込んで、散らばった紙ナフキンを、手あたり次第破いていた。
「ちょっと、何やってんの?」
私は咄嗟に大声を出して、その手から紙ナフキンを奪い取った。しかし時すでに遅し。文字が読めないくらいに、ビリビリに破かれていた。
私はキッと浩介を睨みつけた。
「なんでこんなことするの? 大切な思い出なのに」
「こんな理想、もういらないじゃん」
「え?」
「こんな昔描いた理想が早矢香を苦しめてるなら、もうそれは理想なんかじゃない。呪いだよ」
「の、呪い?」
「そんなの、ぶっ壊そうよ。二人で」
「……え?」
「塗り替えたらいいじゃん。こんな理想」
浩介は私の手に握りしめられていた紙ナフキンをすっととった。
「あっ」と小さく叫んだ私の目の前で、浩介はその紙ナフキンをじっと見つめて言った。
「もう家は建てた。十分な広さはあるし、風通しもいいし、庭もある。早矢香の天才的な家事動線のおかげで、過ごしやすいし」
そう言ってうなずいてから、ビリっと完全に真っ二つに破いた。
私の口から「あっ」と今度は大きな悲鳴が飛び出す。だけど浩介は構うことなく、足元に落ちた紙ナフキンを拾い上げて続けた。
「子どもは二人とも男の子。長男はたまに意地悪だけど、頭が良い。次男は弱虫で泣き虫で守りたくなっちゃうけど、実は正義感が強い」
そう言うと、またビリっと破いた。
「あっ、ちょっと、浩介っ」
「ひどいことをしたと思ったんなんら、謝ればいいんだよ。「ごめんね」って。「もうしないよ」って約束するんだよ」
その言葉に、しゅんと音を立てて、私の体が小さくなる。
「でも……」
「颯太も俊介も、優しい子だ。ママのことが大好きだ。だから許してくれるよ。「ごめんね」って言えば。そして早矢香は、約束を守ればいい。もう二度と同じことをしないって。そういう早矢香の姿を見て、これから二人は「ごめんね」が言える人になるんだ。約束を守れる人になるんだ」
「これからが楽しみだね」と浩介は肩を震わせて言った。
私はまだ心の内側にわだかまりのようなものが残ったままだった。それを消化させる時間も与えられないまま、次から次にビリビリと紙ナフキンが破られていく音が続く。
「ビリッ」と言う音が響くたびに、寂しさで胸が痛んだ。
私たちの思い出がどんどん粉々になっていく。
小さな紙片が、浩介と私の足元に堆く山を作っていく。
ひたすら破いていく浩介の隣で、私はそれを呆然と見つめた。
その山から、紙片の塊を一つまみとって、さらさらと落とした。破いた紙ナフキンは、細かい繊維が毛羽立って、指先にふわりと軽い感触をもたらす。それが、思いのほか指先に心地よかった。
ビリビリという雑音の隣で、私はふわりふわりと、その紙片と戯れた。片手では物足りず、両手を紙片の山の中に入れてみる。すると、両手の平と甲を柔らかさがくすぐる。
両手ですくった勢いに乗って、私はその紙片をぶわりと空に放った。
舞い上がった紙片が、ひらひらと落ちてくる。その光景の中で、驚きをあらわにした浩介の目と合った。
目が合うと浩介は「ははっ」と笑った。そして先ほどまでビリビリと破いていた手を止めて、散らばった細かい紙片をかき集めると、それを両手ですくって、やはり空に放った。
私よりも高く、派手に舞い上げる。
ひらひら、ひらひらと、紙片は時間をかけて降りてきた。
ボールペンで埋め尽くされて黒くなった面と、何も書かれていない反対側の白い面が、空中で交互にひらひらと舞う。
白、黒、白、黒……と。
白と黒だけなのに、「キラキラ」とも「チカチカ」とも見えるから不思議だった。
それを私は、手のひらを上に向けて受け止めた。
紙片に残った浩介の文字に、愛おしい気持ちが湧いてくる。
「きれいだな」
視線を上げると、浩介も手のひらを上に向けて、紙片が舞い落ちるのを、最後まで見守っていた。
その声に、私も気持ちを重ねてみた。
__きれいだ。
私たちの記憶は、こんなにもきれいだ。
甘くて、切なくて、時々苦くて、そして美しい。
私たちが積み重ねた時間。塗り重ねた思い。散りばめた記憶。
落ち切った紙片を、私はもう一度かき集めた。
小さな山を、私は愛おしく手の中で転がした。
「あ、もう一枚落ちてた」
そう言った浩介が手を伸ばして、端に取り残されたように落ちていた紙ナフキンを取った。
それに目を落とした浩介が、低い声で言った。
「理想の夫婦、か」
その声に、どこか寂しさや苦々しさを感じたのは、気のせいだったろうか。
私は浩介に寄り添うようにして手元を覗き込んだ。そこには、当時の私たちの「理想の夫婦」がしたためられていた。
思いやりを持つ。
協力し合う。
家族を大切にする。
二人で乗り越える。
いつも仲が良い。
今読み返しても、それは確かに理想的な夫婦像に見える。これ以上の理想が、あるだろうかと思えるくらい。
だけどそんな理想すら、浩介はビリッ、ビリッとゆっくり破り始めた。
私の目の前で、紙ナフキンは散り散りになっていく。
小さくした紙片を、浩介はふわりと天に舞い上げた。
ひらひらと落ちてくる紙片。
それもまた、美しく舞った。
これから描く私たちの理想も、美しいものになるのだろうか。
新しく描く、理想の夫婦像も。
「……恋が、したい」
不意に飛び出した言葉に驚いたのは私だけではなく、浩介も同じだったようで、きょとんとした目をこちらに向けている。
「あ、いや、あのね、ずっとお互いに恋してる夫婦って、いいなって思って」
しどろもどろになりながら、私は今日の優子の家での話を続けてした。
あの時優子に話した、浩介に対する私の最近の本音や気持ちも。家を出て行こうとしたことも。
そんなことを話したら、浩介は傷つくに決まっている。だけど、これからの私たちのために話そうと決心した。
これからも、夫婦を続けていくために。私たちの新しい理想の夫婦像を描くために。そこに近づくために。
浩介は真剣に、私の話を最後まで聞いていた。
すべて話し終えると、今まで神妙な顔つきで聞いていた浩介は、急にふふっと笑って、そのまま大笑いし始めた。
「な、何?」
「いや、ほんと昔から女の子は面白いこと考えるなあと思って」
「もう「女の子」って年齢じゃないけどね」
睨みつける先にいる浩介に、ふと、高校生の浩介が重なった。
あの頃も、こうして笑っていた。私たち後輩を、その温かい目で、優しい笑顔で、見守ってくれてた。
その頃の浩介は、同じ高校生なのに、二年上の先輩というだけで、吹奏楽部の部長と言うだけで、ずいぶん大人びて見えた。
__水野……先輩……。
思わずその横顔に、見惚れてしまう。
「もう一度、恋する方法かあ……」
そうつぶやいた浩介は、思案気に顎に手を添えた。その穏やかな目元に魅かれて、無性に甘えたくなる。
「浩介は、私に、恋、してる?」
「え?」
きょとんとした表情の浩介と目が合った。
その目と少しの間見つめあって、私もはっとなった。
恥ずかしさの熱がじわじわと襲ってきた。それを誤魔化すように、あたふたと目を泳がせながら、早口で笑って言った。
「ごめん、私、さっきから何言ってるんだろう。恋がしたいとか、恋してる? とか。優子と会ったからかな。なんか、感覚が女子高生に戻ってるというか。めんどくさいよね、二十八にもなって何言ってんだって感じだよね。結婚して子供もいるのに、恋とか言ってるの、イタイよね。もう高校生や大学生じゃないんだから。あの頃みたいに恋愛に費やす時間がいくらでもあるわけでもないのに。家事に育児に仕事にって、その日生きていくのもいっぱいいっぱいなのに。そんな生活の中で、恋だの愛だの言ってられないじゃんね」
そうだ。これ以上考えたって、仕方ない。どんなに頑張ったって、どんなに考えたって、私たちは、あの頃の私たちには戻れないのだから。それが現実なんだから。
私はバカだ。
結婚して、主婦になって、母親になったっていうのに、そんなことにも気づけないなんて。
もう、恋に焦がれる女子でもない。普通の、おばさんなのに。
何が恋だ。そんなことより、守らなきゃいけない現実があるのに。
もう十分恋はした。
いい恋だったじゃん。
一生恋する必要なんてない。
あの時みたいな恋をもう一度なんて、もう言わない。
ふと、床に散らばった紙ナフキンの紙片が目に入った。私はそれを両手でゆっくりとかき集めた。
「まいっちゃうよね、女子の同窓会って」
そう言いながら。
「だからさ、気にしないで、今の話。家出るとか、恋してないと夫婦でいられないとか、そんなバカなこと、本気で考えてないし思ってないし。いつも文句ばっか言ってるけど、浩介には感謝してるし。だから今まで通り、このまま……」
__このまま……?
一瞬胸に引っかかりを覚えて、紙片をかき集めていた手が無意識に止まった。
胸が、チクチクと痛い。
このままでいい。
これが平和。これが安泰。
これでいい。恋なんてしなくていい。恋なんて必要ない。
息を吸い込むと同時に、胸のわだかまりも吸い込んでもみ消した。
「だから、この話は、これでおしまーい」
言いながら、集めた紙ナフキンの紙片を思い切り両手で空に投げた。
ふわりと舞った紙片が、ゆっくりゆっくり落ちて来る。
量が多いから、先ほどよりもずっと長く時間をかけて、紙片は落ち続けた。
相変わらず美しく、白と黒が交互に入れ替わる光景の中で、私はその声をとらえた。
「俺は、早矢香に恋を、してるのかな?」
その声を聞いてだいぶたってから、「……え?」と固く冷え切った声が、私の口からポロリと落ちた。その時にはすでに、紙片は落ち切っていた。
何もなくなった光景の中で、浩介のいつにない真剣な目と出会った。その目は寂しげで、切なげで。
私に問うたはずなのに、その瞳の中には、その答えがもうはっきりと示されているように見えた。だから、私の顔も、無意識に歪んだ。
浩介の目が、まっすぐと私に向けられた。
「俺も、早矢香と同じかもしれない」
「……え?」
「俺はもう、早矢香に恋をしていないのかもしれない」