もう一度、君に恋する方法


 重たい空気が、私たちを覆った。重たくて、首も肩も目も、ずんと落ちる。
 この空気を変える術も、気持ちを切り替える気力も、言葉も、もう何も思いつかなかった。

 その空気の中を、浩介がおもむろにゆるりと動き出した。そしてそばにあったコンビニの袋を、がさがさと漁った。
 その時、アイスのことを思い出した。
 きっとビニール袋の中で溶けてしまっているだろう。せっかく浩介が買ってきてくれたのに。
 浩介の気持ちを、私は無駄にすることしかできない。いつもそうだ。

「飲む?」
「え?」

 溶けたアイスのことを言っているのだろうかと、不審げに顔を上げた。だけど浩介が手にしていたのは、ペットボトルだった。
 ブドウの炭酸ジュースのパッケージが見えた。
 昔から少しずつデザインが変化してきたそのパッケージ。
 あの日、あの瞬間から好きになった、ブドウの炭酸ジュース。

 私の返事を待たずに浩介は立ち上がって部屋を出て行った。そして戻ってきた時には、その手に、グラスが二つあった。
 私の前に一つ置くと、浩介は手首をひねって蓋を開ける準備をする。だけどなぜか一瞬、その動きを止めた。そして、ふっと力なく笑って言った。

「恋ってさ、炭酸ジュースに似てるよね」

 そう言ってから、改めてペットボトルに力をこめた。すると、ペットボトルのふたが勢いよく回され、カチカチっと硬い音が響いた。その後、パシュっと爽やかな音と同時に、白い気体がペットボトルの口元で揺れた。
 開けたジュースを浩介が勢いよくコップに注ぐと、しゅわしゅわと音を立てながら、炭酸の泡がむくむくと膨れ上がる。
 それはほんの一瞬のことで、次の瞬間には勢いを失くして一気に沈んでいく。気泡をパチパチと弾けさせながら。
 泡が落ち着くと、今度はゆっくりちょろちょろと注ぎ直した。

「開けた瞬間の炭酸の刺激。開けたそばからあふれてくる泡。その後もずっとしゅわしゅわ弾けて、落ち着かない。口に入れたそばから爽やかな刺激に襲われて、鼻の奥とかのどの先とかピリピリ痺れるんだけど、それも次第にクセになってきて。何度も何度も口にふくみたくなる。その味と刺激を、もっと感じたくなる。のどを通っていく刺激も、その中にある甘さや爽やかさも全部楽しくて、全部大好きになる」

 透き通った紫の液体の中で、小さな泡がとどまったり、浮遊してたり、弾けてなくなったりを繰り返すのを、私は浩介のゆったりとした声を聞きながら見つめ続けた。

「だけど、炭酸は徐々に抜けていく。そのうち刺激もなくなる。ただの甘ったるいジュースだけが残る。炭酸飲料のおいしさ
は、一瞬で、儚い」

 浩介の声が切なげに変わる。

「ほらね、炭酸ジュースと恋は、似てるでしょ? キャップを開けた時の爽やかな音も、ドキドキする刺激も、泡のしゅわしゅわしたくすぐったい感じも。「好きだー、好きだー」って叫んでるみたいなパチパチ弾ける音も。そして、次第に炭酸が抜けて消えてく、儚さも」

__一瞬の、儚さ。

 浩介が見つめるグラスの中身を、私も一緒に見つめた。

「どうして人は恋をしたがるんだろうね。いずれ消えてしまう感情なのに。炭酸が消えたら、ただのぶどうジュースしか残らないのに。おいしさも、刺激も、楽しさも、一瞬なのに」

 浩介が目の前のジュースの中に描くものは何だろう。

 消えていく相手への愛情や思いやりの心だろうか。


 人は、どうして恋をするんだろう。


 恋は楽しいことばかりじゃない。実らない恋だってある。
 面倒くさいぐらいの嫉妬もする。不安にもなる。自分に自信がなくなることもある。相手の気持ちが気になる。頭の中が相手のことでいっぱいになってモヤモヤして、自分が自分じゃなくなりそうで、苦しいくらい気持ちが乱れる。
 そんな、苦しくて、切なくて、苦い思い、する必要ないのに。
 恋をしたって、何も残らないかもしれないのに。
 残ったとしても、それはもうすでに、味気ない現実だけかもしれないのに。

 それなのに、人は恋をする。
 それでも人は、恋することをやめようとしない。

 どうして?

 どうして私は、恋をしたいと思うのだろう?
 どうして私は、恋をしたんだろう?

 今もなおグラスの中の炭酸は弾けて、その一瞬の役目を終えようとしている。
 揺れる気泡の一粒一粒に、振り返ったばかりの記憶を投影していく。

 一瞬の刺激。一瞬のときめき。一瞬の儚さ。

 その一瞬一瞬の中に、あの頃の私たちの声が、しゅわしゅわと小さな音を立てて聞こえてくるようだ。


__「こんにちは」

初めて聞いた声。


__「君、うちに来ない?」

初めての戸惑い。


__「俺が塗り替えてあげるよ」

初めて聞いた、音。


__「何の変哲もない茶色のこびんは、こうしていろんな色に塗り替えられる。青色にしてもいい、赤色にしてもいい。宝石をちりばめてもいい。あえて傷をつけてもいい。中身を変えたっていい。甘いジュース、しゅわしゅわの炭酸。にがーい青汁」

 その声は、頭の中から、私の胸をくすぐってくる。
 そして、力強く、私の胸を抱きしめる。


__「だけど、どんなに塗り替えても、どんなに塗り直しても、どんなに中身を変えても、ベースは絶対変わらない。つまり……」


「……好き、だから」


「え?」

「好きだから、恋をしたくなるんだよ」

 言いながら、自分の言葉の一つ一つに手ごたえを感じていた。ぼんやり朧だった頭の中の靄が、晴れていくように。

「浩介のことが好きだから、私は恋がしたいんだよ]

 私の答えに、浩介はまるで信じられないといった顔をしている。そして、戸惑うように言葉を震わせて私に聞いた。

「え? 早矢香は、俺のことが、好きなの?」

 その質問に、私自身がはっとなる。

__私は、浩介のことが……

「だって、俺とはもう恋できないから、もう好きじゃないから、このまま続けていくことはできないって思ったんだよね? だから、家を出ようと思ったんだよね? 立花さんにもそう……」

「そうだよ」

 浩介の言葉を遮って、私は勢いよく答えた。

「私は、浩介のことが好きだよ」
「え? でも……」
「わかってるよ。言ってることがめちゃくちゃだってことぐらい。でも、自分でもよくわかんないんだよ。自分のことがよくわかんなくなるぐらい浩介のこと考えて、浩介のこと考えてると自分がよくわかんなくなってくる。私の頭の中はもう、浩介のことでいっぱいで、ぐちゃぐちゃなんだよ」

 あふれる。
 ぐちゃぐちゃになった想いが、気持ちが。
 振り回されてあふれ出た、炭酸の泡みたいに。

「あの頃みたいにドキドキしないし、ときめいたりもしない。だけど、こんなに苦しくて、こんなに必死で、嫌われたくなくて、好きでいてほしく、好きでいたくて。浩介を傷つけるのも、自分が傷つくのも怖くて、そばにいたくて、失いたくなくて。これで好きじゃなかったら、この気持ちは何なの?」

 私の心の中の炭酸が、しゅわしゅわと泡を弾けさせる。その刺激は、強くて、痛くて、胸が苦しい。

「あの頃と同じじゃなくてもいい。私はもう一度、浩介に恋がしたい。浩介と恋がしたい」

 切ない思いは、言葉では足りず、目から涙となってさらにあふれ出る。
 その言葉と涙を、浩介の、まるで歌を口ずさむような声が止めた。

「おんなじだ」

「……え?」

「俺も、早矢香と同じ気持ち」

 そう言った浩介は、砕けた体育座りに座り直してから、膝小僧の辺りに切なげな視線と声を落とした。

「最近はさ、正直、早矢香のことよくわかんなんくなってた。何をしても、早矢香を笑顔にすることはできないから。どうしていいのかわからなくて不安になることもあったし、突き放されて寂しい時もあった。どんなに頑張っても、俺にはもう、早矢香を笑顔にすることはできないんじゃないかって、自信がなくなることもあった。こんな俺だから、早矢香に愛想つかされても仕方ないとは思うんだけど、そんなことより、俺は自分の気持ちまで薄れかけてることの方が怖かった。このまま俺も、早矢香への気持ちを失くしてしまうんじゃないかって。もうすでに、早矢香を好きじゃないんじゃないかって。もう何もかも、戻らないんじゃないかって」

 浩介の想いが私の前に突き付けられると、私まで不安になった。寂しくなった。辛くなった。恐くなった。
 そんな思いに、今まで気づけなかったことに。見向きもしなかったことに。
 笑顔と優しさの裏側にそんな思いを隠しながら、浩介は私を笑顔にしようと奮闘していたのかと思うといたたまれなくなった。感情をそのままぶつけていた自分が、情けなくなってくる。

 いつも笑顔で優しい浩介は強い人だった。
 だけど、そうだよね。浩介だって……

 逃げるように顔を伏せる私の耳に、浩介のはっきりとした言葉が矢のような勢いで飛んでくる。

「不安だった。寂しかった。辛かった。そして何より、怖かった。早矢香を失うことも、早矢香への気持ちを失うことも」


__いたい。痛いよ。

 ごめんね、浩介。


「自分が傷つくことも、早矢香を傷つけることも。嫌われたくないし、嫌いになりたくないし、好きでいてほしいし、好きでいたい。そばにいたくて、そばにいてほしくて、失いたくない」

 うつむいたまま最後までその言葉を耳と胸に切り刻んだ時、心の中で「……え?」と呟いた。
 ぱっと視線を浩介の方にやると、浩介の顔には、弱々しくも、温かな笑みが浮かんでいた。


「ほらね? 同じでしょ? 俺と早矢香の気持ち」

「え?」

「俺たちはずっと、両想いだったんだ」

__両想い……

 私たちはずっと、両想いだった。
 
 ずっと……


「なんだろう、今までずっと不安で寂しくて辛くて怖かったのに、早矢香も同じ気持ちだったってわかったら、俺たちは両想いだって気づいたら、なんかほっとした」

 浩介は体育座りの態勢を崩して、私が最後にばらまいた紙ナフキンの紙片を集め始めた。

「両想いって、こんなにいいもんなんだな。こんなにも、嬉しくて、安心する。すっかり、忘れちゃってたな。一度は両想いを経験したのに」


 浩介は集めた紙片を、手でつかむと、低い位置からサラサラと落とした。
 砂時計の砂が、さらさらと落ち始めたように。

「俺、また、恋がしたくなってきた」

「え?」

「ねえ早矢香」

 穏やかな眼差しが、こちらに向けられる。
 優しく澄んだその瞳に、今にも吸い込まれてしまいそうだ。
 初めて出会った、あの頃のように。


「もう一度、早矢香に恋してもいい?」


 その声に、その言葉に、その瞳に、胸が懐かしく震えだす。

 静かな部屋に、グラスの中で炭酸がパチパチと弾ける音が、よく聞こえた。
 

 
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