追放令嬢からの手紙 ~かつて愛していた皆さまへ 私のことなどお忘れですか?~
一章 追放令嬢の手紙
王太子セルヒオとベルシュタ公爵家の令嬢リーナが婚約したのは、国力増強を目的とした政略的なものだった。
リーナは白銀を紡いだような銀髪に美しい青い瞳をした少女だった。
表情こそ乏しいものの、優しげな眼差しと優美な仕草から、まるで月の女神のようだと周囲からは称されていた。
幼い頃から顔見知りだったふたりは婚約してもその関係を変えることなく、よき友人であり主従であった。
生まれながらの王族としての気品と才能を持ったセルヒオと、賢く貞淑で美しいリーナ。ふたりはとても仲睦まじかった。
しかし、その関係はもろくも破綻することになる。
国内貴族の子息令嬢が通う王立学園で、セルヒオはとある少女に出会ってしまったのだ。
グラセス男爵家の令嬢ミレイア。
彼女は父親である男爵がメイドに手を付けて生ませた庶子で、学園に入学するまでは平民として市井で生きてきたのだという。
そのせいで、どこか貴族らしからぬ立ち振る舞いが目立ち、学園生活の中で浮きがちな存在だった。
ある時、ミレイアが木に登った仔猫を助けようとして逆に自分が木から下りられなくなったところ、偶然通りかかったセルヒオに助けられたことをきっかけに、ふたりは急接近した。
まるで恋人のように常に行動を共にし、親しげに振る舞うふたりの姿に周囲は困惑した。
セルヒオにはリーナがいるのに、と。
当然、その行動はリーナ当人の耳にも入ることになる。
最初はミレイアに対し、努めて冷静に『貴族令嬢ならば婚約者のいる男性に親しげに話しかけてはならない』と伝えるだけだったリーナだったが、注意後も態度を改めないことに業を煮やし、だんだんとその手段を強行化させていった。
慣れぬ学園生活を手助けする振りをしつつ、取り巻きの女生徒たちにミレイアを虐めさせ、学園生活をおびやかした。
あまつさえ、リーナを信奉する男子生徒に嘘を吹き込み、ミレイアを襲わせたのだ。
幸運にもそれは未遂に終わったが、ミレイアは足に怪我を負ってしまった。
「リーナ・ベルシュタ。お前との婚約は今日限りで破棄する!」
断罪は、セルヒオの卒業を祝うパーティーの場で行われた。
リーナがいかに悪辣な策略でミレイアを苦しめていたのかが暴露され、華やかな祝宴の場は激しい糾弾劇となった。
「ミレイアへの暴挙だけではないぞ、リーナ。お前が私の婚約者という立場を悪用し、身勝手な振る舞いをしていたことは既に明白だ」
そう。リーナは公爵令嬢であり王太子の婚約者という立場を笠に着て、学園の生徒たちを顎で使い女王のように振る舞っていたというのだ。
最初はその話を信じていなかったセルヒオだったが、学園の生徒たちからその事実を聞かされ驚愕し、落胆した。
「お前はこの国の貴族としてあるまじき存在だ。即刻国を出ろ!」
観衆の前でセルヒオはリーナとの婚約を破棄し国外追放を宣言。
リーナは当然、否定した。何もしていないと。当たり前だ、狡猾な悪事を起こした人間が、己の罪を簡単に認めるわけがない。
ベルシュタ公爵家も抗議をしてきたが、セルヒオの決定は王により承認された。
そしてリーナは静かに王都から姿を消した。
それから五年。
セルヒオはミレイアと結婚していた。身分差を乗り越えたふたりの結婚は、演劇や物語として国中に語り継がれるようになっている。
物語の中でリーナは悪辣で我儘な令嬢として描かれており、誰もが彼女を悪だと信じていた。
「それが今になってどうして」
セルヒオは昨日届いたリーナの手紙を思い出しては、重い息を吐き出す。
肝心の便箋は破り捨ててしまったため手元には残っていないが、書かれていた文面の一字一句は、いまだにはっきりと網膜に焼き付いていた。
「くそっ……」
リーナを国外追放に処した時に最も大きかった感情は怒りだ。その次は失望だった。
決してセルヒオはリーナを蔑ろにしたつもりはなかった。学園では一緒に居ることはできなかったが、妃教育の合間など顔を合わせる機会はこれまで通りに作っていた。
ミレイアの態度や姿が新鮮で眩しく、学生という身分の垣根を越えて関われる間は話をしていたいと思ってしまったのも事実だ。
今になって思えば若い男女が常に一緒にいることで誤解を与えた可能性はあったと思う。
しかし、あの頃のセルヒオは誓ってミレイアとは何の関係もなかった。
生まれと境遇のせいで孤立しがちだったミレイアが不憫で憐れで、王族として何とかしてやりたいという親心にも似た気持ちで接していただけなのだ。
もしリーナが正直に嫉妬心を伝えてくれれば、セルヒオはミレイアと適切な距離を取ったことだろう。
美しく有能な婚約者リーナは自慢の存在だった。隣に立ち、共にこの国を支えていくと信じて疑ったことなどなかったのに。
(どうして道を間違えたんだ、リーナ)
再び重いため息をつ きながらセルヒオは首を振る。
せめて、リーナの行いが嫉妬から来るミレイアへの加虐だけならば、国外追放などという強固な手段を取らずに済んだのに。
どうして変わってしまったのか。
あんなに美しく気高かったリーナはどこにいったのだろうか。
(……私は、何を考えている?)
セルヒオは前髪をぐしゃりとかきあげた。
胸に広がる苦さの理由など、知りたくないとでも言いたげに首を振る。
婚約破棄と追放を宣言した頃は、こんな気持ちになることなどなかったのに。
「これもすべて……くそっ」
握りしめた拳を机にぶつければ、鈍い音が部屋の中に響く。わずかな痛みが、冷静さを失いかけていた気持ちを少し落ち着かせた。
「とにかく手紙の出どころを確かめなければ。そして……」
そこまで口にして、セルヒオは息を呑呑む。
(そして? 私は今、何を……? リーナの居どころを突き止めてどうするつもりだ?)
衝動的に調査を命じたものの、その先に何をしたいのかわからない。
リーナが今になって連絡を取ってきたのには何か理由があるはずだ。もしかしたら、何か困ったことがあって助けを求めているのかもしれない。
「は、何を今更」
己の思考が信じられないといったように首を振っていたセルヒオの耳に、静かなノック音が聞こえた。
「……入れ」
「失礼します」
一瞬、あの文官が手紙についての続報を持ってきたのかと期待したセルヒオだったが、現れたのは顔色を悪くした別の文官だった。
その姿に、セルヒオは思い切り顔をしかめる。
「またなのか」
「……申し訳ありません。王太子妃殿下が、お部屋にお籠もりに」
舌打ちしたい気持ちをこらえながら、セルヒオは両目をきつく閉じた。
リーナとの婚約破棄騒動の後、すべて自分のせいだと嘆いて寝込んだミレイアをセルヒオは保護し、自らの傍に留め置いた。
最初は、純粋な親切心と庇護庇護欲だけだったのに、ずっと傍でけなげな振る舞いをするミレイアにセルヒオは男として惹かれてしまったのだ。
多少の反対はあったものの、ミレイアへの愛を貫くと宣言したセルヒオを支持する声も多かったことから、ふたりは無事に婚約に至り、二年前に正式に結婚をした。
愛する者と結ばれ、セルヒオは幸せだった。
平民に混じって育ち貴族としての知識に疎いミレイアの無邪気な振る舞いに、最初はみんな好意的だった。
だが、時が経つにつれ、幸せに影が差すようになった。
お茶会を開いても不手際や無作法が目立ち、手紙や贈り物のしきたりを間違え、公式の場でも王族の自覚に乏しい行動ばかり。
ミレイアも努力していたが、高貴な振る舞いは一朝一夕で身につくものではない。しかし王太子妃としての職務は待ってはくれない。結果としてミレイアには過酷とも呼べる妃教育が施されることになった。
「今度は何があった」
「語学のレッスンで教師が……少し叱責を」
わずかに言い淀んだ文官の言葉遣いに、セルヒオは眉をひそめた。
おそらく、教師は叱ってすらいないのだろう。何か些細な指摘をしたくらいに違いない。
「わかった。その教師は今日で退職させろ。いつものように退職金を渡しておけ」
「し、しかし、もう他に代わりは……」
「構わん。外国語のレッスンは優先順位としては低かったはずだ。他の授業を増やせ」
文官は何か言いたげに目線を泳がせていたが、深く頭を下げ、そのまま静かに退室していった。
再びひとりになったセルヒオは、椅子の背もたれに疲れ切った身体を預ける。
(ミレイアがリーナの半分……いや、その半分でも努力してくれたならば)
妃教育は優秀な王室教師たちに任せておけば安心だと信じていたセルヒオだったが、たったの数ヶ月でその希望は砕かれてしまった。
「あの人たちは、私が庶子だからと嘲るのです。酷いですわ」
授業から逃げ出したというミレイアを見舞えば、彼女はセルヒオの顔を見た途端にさめざめと泣きながらそう告げてきた。
聞けば、教師のひとりがミレイアを叱責し、リーナを引き合いに出したのだという。
激怒したセルヒオはその教師を辞めさせ、新しい教師を雇った。
「泣かなくていいミレイア。君は、ゆっくり学んでいけばいいんだ」
「セルヒオ様……!」
大きな瞳をうるませ細い肩を震わせるミレイアを、愛おしく抱きしめながらセルヒオは胸をいっぱいにさせた。
だが、事態はそれで終わらなかった。
ほんの数日後、ミレイアは別の教師から同じように叱責を受けたと泣きついてきたのだ。新しい教師を雇っても、数週間しかもたない。
最初はミレイアの言葉を信じ、教師たちを処罰していたセルヒオもその頻度の多さにようやく事態の深刻さを理解した。
調べさせたところ、最初の教師以外はミレイアに声を荒らげたことすらなかったことがわかった。
ほんのわずかな間違いを教えただけで、ミレイアは瞳を潤ませ「酷い」と叫んで逃げていたのだ。
さすがのセルヒオも、ミレイアを追究及するしかなかった。
「どうして泣くんだミレイア。学校の勉強と同じだ。彼らは君を指導しているだけなんだ」
「いいえいいえ。みんな私を笑うのです。心の中でずっと、私とリーナ様を比べて、見下しているのです」
子どものように駄々をこねるミレイアに、セルヒオははじめて苛立ちを感じた。
(これくらいリーナは簡単にできていたのに)
口からこぼれかけた言葉を呑み込み、セルヒオは根気よくミレイアをなだめた。
そして教師たちにどんなに間違いがあっても指摘せずに指導するように伝え、代わりにセルヒオが自ら空いた時間にミレイアに間違えた箇所を教えるようにしていた。
だというのに、今日のようにミレイアの逃亡癖は改善していない。
遅々として進まない妃教育の状況を知った、両親である国王夫妻の視線は日に日に冷たくなっている。
雄弁に語る瞳が、セルヒオの過ちを責めているのが苦しいほどにわかった。
それだけではない。愛娘を追放させられたベルシュタ公爵家は以前ほど王家に協力的ではなくなり、登城を拒んでいる。
公爵家の広い人脈や、有能な婚約者を失ったことは王家にとって甚大な損害だった。
(リーナと結婚していれば)
以前ならば考えもしなかったもしもに心が乱される。
ミレイアに付き合っているせいで寝不足が続いており、正常な思考回路が働かないのかもしれない。
「落ち着け……冷静になるんだ。今は、それどころではない」
数日後には、隣国カルフォンの皇太子が国境を流れる運河の護岸工事にまつわる条約締結のため来訪する予定となっている。
条約締結の条件を少しでもコロムに優位に進めたいセルヒオはその準備に忙しく、他のことにかまけている暇などない。
ほんのわずか考え込んだセルヒオは静かに立ち上がる。
「私は何も間違えていない。これまでも、これからもだ」
自分に言い聞かせるように呟きながら、なすべきことをするために歩き出したのだった。