― 伝わりますか ―
「橘 右近殿はどうなされた……」

 早くも耐え難き涙に頬を温めた悠仁采の、唯一の言葉であった。

 この数年来、涙というものの存在したことなどある筈もない。織田への憎しみの炎は()うに涙を干上がらせ、また、泣く間など有り得なかったのだから。

 右京はと云えば彼は彼で、頬を伝う涙の訳と祖父の名に、驚きを示さずにはいられなかった。が、不審を帯びる疑惑を抱いた訳でもない。

「祖父を御存知でしたか……。祖父は私の生まれる以前に病に倒れました。故に名の他には何も──」

「そうか──」

 知らず知らず口から出た言葉に、安堵の意がこもっていたことは誰も気付かなかった。右京が右近の生前の姿を知っていたならば、彼自身悠仁采の様子に目を疑ったことだろう。ましてや、あの報妙宗操る八雲であることを気取(けど)られてはならぬのだ。

「おじじ様、おじじ様は一体どなたなのですか? 右京様のおじじ様を知り、私のおばば様さえ知っているご様子だった……おじじ様は一体……!」

「秋、怪我人を困らせてはいけない」

 半ば混乱し我を忘れた秋を、伊織は冷静にあしらった。しかしやがて壁より進み出で、この機会を利用せんとばかりに、


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