ふたりの時間を戻して ―幼なじみの恋―
「どうしたの? 紗希ちゃん?」

 懐かしい声だった。しかも結婚してからは、呼ばれなくなった呼び方だ。

 知り合って結婚するまでは『紗希ちゃん』と呼び、結婚してからは『紗希』に変わった。

 紗希は自分のことを愛してくれた当時の呼ばれ方に胸が熱くなった。同時にたった今、恐怖に震えていた心には、山下の笑顔がとてつもない安堵を与えてくれた。

「あ、あの、久し、ぶり」
「紗希ちゃん、せっかくだから、一杯どう?」
「え?」
「紗希ちゃんには、その、謝りたいこともあるから」

 申し訳なさそうに言う山下の顔を無言で見つめ、紗希は小さく頷いた。

 近くの居酒屋に入り、いくつかつまみを注文する。その後、山下が近況を話し出した。

「営業回りでこの辺りに最近よく来るんだ。そっか、紗希ちゃん、この近くで働いているんだね」
「……うん」
「元気そうでよかった。その、悪かったよ、本当に」
「……いいよ、もう。それで彼女とは、その、うまくいってるの?」

 山下は照れたように微笑むと、首を左右に振った。

「別れたんだ。紗希ちゃんとの離婚が成立したと告げたら、急に態度が冷たくなってね。結局、そのあとすぐに別れた。フラれたって言うべきかな。僕は本当にダメな人間だよ。一番つらい思いをしている妻を励まさず、自分を慰めることばかり考えて逃げてしまった。でも、紗希ちゃん、これだけは信じて欲しい。僕たちの間にできた子を、僕は本当に楽しみにしていた。嬉しかったんだ」

「…………」
「だから大学生だった紗希ちゃんに退学までお願いして結婚したんだ」
「……わかってる」
「僕は三人で幸せになるんだと思っていた」
「わかってる。もう言わないで」
「紗希ちゃん」
「もう済んだことよ」

 紗希は膝の上に置いた手をギュッと強く握った。

「済んだことだし、私なりに立ち直った。だから気にしないで」

 山下はじっと紗希を見つめ、しばらく無言だったが、微笑むとポケットから小さなメモ帳を取り出した。さらにボールペンも取りだすと、サラサラとなにかを書いて千切り、紗希に渡した。

「新しい住所と電話番号。なにかあったら連絡をくれ。一人じゃ心細いだろ?」

 渡された紙を見るが、紗希はその紙を返した。刹那に山下の顔が強張る。

「ありがとう。気持ちだけで充分。山下さん、私にはもう頼れる人がいるの」

 山下の目がますます深い動揺を浮かべる。紗希が名字で呼んだことがショックだったようだ。

「つきあってる人がいるのよ。誤解されたくないから」
「あ、そう、なんだ。そっか。よかったね」
「うん」

 紗希はうっすらと微笑んだのだった。

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