ふたりの時間を戻して ―幼なじみの恋―
「紗希? 紗希か?」
ふいに名を呼ばれた。顔をあげると、幼なじみが立っていた。
松浪圭司、近所に住み、高校までずっと一緒だった男だ。
「圭ちゃん?」
「うわ、偶然。久しぶりやなぁ! 元気やったか?」
紗希の顔に浮かんだ驚きは、すぐに微笑みへと変わった。
この声、このトーン、そしてこの笑顔。紗希が初めて恋心を抱いた相手。
「うん。でも圭ちゃん、どうしてここに?」
「え? あ、ちょっとな」
圭司は照れ笑いを浮かべると、紗希の隣に腰を下ろした。
「東京、どう?」
「東京? すごい人よ」
圭司はまた笑った。
「なに言うてんねん。違うわ。お前の生活のことやん。東京での」
「…………」
「けど、そうなん? そんなに東京って、人、多いんか? 梅田とか難波とかとたいして変わらんのとちゃうん?」
紗希の沈黙になにか感じたのか、圭司が笑みを残しつつ、さりげなく話の内容を変えた。
「ぜんぜん違うよ。もう、どこもかしこも人だらけ。すごすぎる。だって、突っ込んでいかないと、道も歩けないもん。人の壁で遮られて」
圭司は「へぇ。そんなにすごいんか」、そう言ってまた笑った。
その笑顔は紗希にとって、懐かしすぎるものだった。
「なんや、すっかり東京コトバになったんやなぁ。別人みたいや」
ツッコミを入れられ、一瞬きょとんとし、苦いモノを感じた。
これを身につけるために、どれだけ苦労したか。そしてその苦労の先にあったものが、今の事態を招いたのだ。
だが圭司には関係のない話だ。紗希も微笑み返した。
「そう? 苦労したんだよね、コトバ」
「そんなにちゃうん?」
「イントネーションがね」
「なるほど」
そう言って少しばかり難しい顔をする。が、次の瞬間、もう笑顔に戻っていた。
(あったかい……)
紗希の心にそんな思いと言葉がこみ上げてくる。
ホームタウンの空気、感覚。
慣れ親しんだものはなかなか変えられない。会話のテンポ、笑いを誘う言い回し。おどけ。なにもかもが温かく、心に沁み入った。
「で、帰省か?」
本来なら痛いツッコミだったが、紗希は笑顔で答えた。
「離婚して親に挨拶に来た」
「りこん? 離婚? マジかっ!」
「やっと終わった。三年、長かったなぁ。せっかくの大学も卒業できなかったし、なんか、バカみたい。でも、晴れて自由の身になったしね」
圭司がじっと紗希の顔を見つめる。珍しく真剣な目つきに、紗希のほうが驚いた。ここはお笑いで通すんじゃないのか。
圭司は顔を逸らすと、真横で咲くムスカリに視線を落とし、暗い口調で話し始めた。
「あのさぁ、今やから言うけど、あの時の事件、お前はたまたまそこにいただけやって、俺、わかってるから」
紗希の顔が瞬時に強張る。『今、その話をするのか?』そう書かれていた。
「悪い。傷ついてんのはわかってるけど、どうしてもお前に言いたかった。あの乱交事件、関わった連中とお前じゃ、水と油みたいで違和感ありすぎや。お前はたまたま居合わせて、目撃しただけやってわかってるのに、雰囲気に飲まれて、俺、今まで言われへんかった」
紗希の脳裏に高校三年になったばかりの記憶が蘇った。
放課後の美術室に忘れ物を取りに行った紗希は、そこで複数の男女が乱れた服装で重なりあっているところに遭遇した。
「ひっ」と短い悲鳴を上げたのがいけなかった。
その中の一人が紗希に気づき、立ちあがって、硬直している紗希の腕を掴んで引っ張ったのだ。その男子生徒の上に倒れ込んだ時、美術室の鍵がないことに気づいて向かっていた教員が入ってきた。
事件について紗希は正直に話した。
服装の乱れもない上、生徒たちと紗希では素行の違いや、普段から接点がないことなどを見れば、まったく関係がないことなど誰の目にも明らかだ。
しかしながら、こういう出来事を人は興味半分に悪いほうへ流してしまう。実は紗希も同じような存在ではないのかという目で見られ、居たたまれない状態になった。これがきっかけで地元を離れようと、東京の大学を目指すことにしたのだ。
ふいに名を呼ばれた。顔をあげると、幼なじみが立っていた。
松浪圭司、近所に住み、高校までずっと一緒だった男だ。
「圭ちゃん?」
「うわ、偶然。久しぶりやなぁ! 元気やったか?」
紗希の顔に浮かんだ驚きは、すぐに微笑みへと変わった。
この声、このトーン、そしてこの笑顔。紗希が初めて恋心を抱いた相手。
「うん。でも圭ちゃん、どうしてここに?」
「え? あ、ちょっとな」
圭司は照れ笑いを浮かべると、紗希の隣に腰を下ろした。
「東京、どう?」
「東京? すごい人よ」
圭司はまた笑った。
「なに言うてんねん。違うわ。お前の生活のことやん。東京での」
「…………」
「けど、そうなん? そんなに東京って、人、多いんか? 梅田とか難波とかとたいして変わらんのとちゃうん?」
紗希の沈黙になにか感じたのか、圭司が笑みを残しつつ、さりげなく話の内容を変えた。
「ぜんぜん違うよ。もう、どこもかしこも人だらけ。すごすぎる。だって、突っ込んでいかないと、道も歩けないもん。人の壁で遮られて」
圭司は「へぇ。そんなにすごいんか」、そう言ってまた笑った。
その笑顔は紗希にとって、懐かしすぎるものだった。
「なんや、すっかり東京コトバになったんやなぁ。別人みたいや」
ツッコミを入れられ、一瞬きょとんとし、苦いモノを感じた。
これを身につけるために、どれだけ苦労したか。そしてその苦労の先にあったものが、今の事態を招いたのだ。
だが圭司には関係のない話だ。紗希も微笑み返した。
「そう? 苦労したんだよね、コトバ」
「そんなにちゃうん?」
「イントネーションがね」
「なるほど」
そう言って少しばかり難しい顔をする。が、次の瞬間、もう笑顔に戻っていた。
(あったかい……)
紗希の心にそんな思いと言葉がこみ上げてくる。
ホームタウンの空気、感覚。
慣れ親しんだものはなかなか変えられない。会話のテンポ、笑いを誘う言い回し。おどけ。なにもかもが温かく、心に沁み入った。
「で、帰省か?」
本来なら痛いツッコミだったが、紗希は笑顔で答えた。
「離婚して親に挨拶に来た」
「りこん? 離婚? マジかっ!」
「やっと終わった。三年、長かったなぁ。せっかくの大学も卒業できなかったし、なんか、バカみたい。でも、晴れて自由の身になったしね」
圭司がじっと紗希の顔を見つめる。珍しく真剣な目つきに、紗希のほうが驚いた。ここはお笑いで通すんじゃないのか。
圭司は顔を逸らすと、真横で咲くムスカリに視線を落とし、暗い口調で話し始めた。
「あのさぁ、今やから言うけど、あの時の事件、お前はたまたまそこにいただけやって、俺、わかってるから」
紗希の顔が瞬時に強張る。『今、その話をするのか?』そう書かれていた。
「悪い。傷ついてんのはわかってるけど、どうしてもお前に言いたかった。あの乱交事件、関わった連中とお前じゃ、水と油みたいで違和感ありすぎや。お前はたまたま居合わせて、目撃しただけやってわかってるのに、雰囲気に飲まれて、俺、今まで言われへんかった」
紗希の脳裏に高校三年になったばかりの記憶が蘇った。
放課後の美術室に忘れ物を取りに行った紗希は、そこで複数の男女が乱れた服装で重なりあっているところに遭遇した。
「ひっ」と短い悲鳴を上げたのがいけなかった。
その中の一人が紗希に気づき、立ちあがって、硬直している紗希の腕を掴んで引っ張ったのだ。その男子生徒の上に倒れ込んだ時、美術室の鍵がないことに気づいて向かっていた教員が入ってきた。
事件について紗希は正直に話した。
服装の乱れもない上、生徒たちと紗希では素行の違いや、普段から接点がないことなどを見れば、まったく関係がないことなど誰の目にも明らかだ。
しかしながら、こういう出来事を人は興味半分に悪いほうへ流してしまう。実は紗希も同じような存在ではないのかという目で見られ、居たたまれない状態になった。これがきっかけで地元を離れようと、東京の大学を目指すことにしたのだ。