君がくれた無垢な愛を僕は今日も抱きしめる
記憶障害――。

陽茉莉は「人」に関する記憶がすっぽりと抜け落ちていた。目の前にいる両親が両親だとわからない。自分の両親だと言われてもピンとこない。

あんなにも大好きだった亮平のことも忘れている。

この世界で生きてきたことはわかるし自分が矢田陽茉莉だということはわかる。それなのに、他に誰一人として思い出せる人物はいなかった。

それは一過性のものなのかどうなのか、判断は難しい。この先記憶が戻るのか、もうずっとこのままなのか、それは誰にもわからない。リハビリを重ねればもしかしたら……という可能性もあるけれど、果てしなく遠い道程に思えた。

「でもね、陽茉莉が生きててくれた。それだけで嬉しいわ」

母が無理やり気持ちを上向きにする。

まさか自分の子どもが二人とも大きな事故に巻き込まれるだなんて夢にも思わない。陽太は亡くなってしまったけれど、陽茉莉は生きていてくれた。それがどれだけ心の支えになっているか想像に難くない。

「亮平くんにはつらい思いをさせてしまってすまないね。そういうわけなんだ。申し訳ない」

父が頭を下げる。“申し訳ない”と言う言葉にはどんな意味が含まれるのか、亮平は深く考えたくなかった。

「いえ、一番つらいのは陽茉莉だと思うので。できる限りご支援させてください」

この先、陽茉莉との関係はどうなってしまうのだろう。陽茉莉が亮平のことを思い出さなければ、二人は知り合う前に戻る。亮平がいくら陽茉莉を愛していようと、陽茉莉は亮平の記憶がゼロなのだ。

記憶は戻る?
戻らない?
もし戻らなかったら?

果たしてそこにもう一度亮平が入る場所はあるのだろうか。もう一度陽茉莉が亮平を好きになるだろうか。

いや、そもそも、このまま亮平のことは知らない方がいいのではないか。陽茉莉はこれからリハビリも始まるのだ。自分のことで手いっぱいになるだろうに、わざわざ車椅子の亮平を知ってもらうことはない。余計な手を煩わせるだけだ。

「…………!」

考えれば考えるほど負のループにはまっていく。沈みゆく気持ちが止められそうになかった。
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