青空くんと赤星くん
土曜日、青先輩家の最寄り駅、安藤市立病院前駅で待ち合わせた。
お母さんから持たせられた菓子折りと(家を出るとき、『これは青空さん家にお渡しするもの。勧められない限りはくるみが食べちゃだめよ』と念押しされてしまった。お母さんは私をそうとう食い意地の悪い娘だと思っているみたい)、朝からはりきって作ったガトーショコラとブルーベリームースケーキを持ってきた。
そして、青先輩のご両親へのご挨拶を何回もイメトレした。
『はじめまして。優翔さんとお付き合いをしております、牛尾田くるみと申します』
と言って、紙袋から菓子折りを出す。
『大したものではありませんが、どうぞ召し上がってください』と差し出すのだ。
家の中で渡すときは持ち運ぶ必要がないから、紙袋は私が持ち帰るのだ。
お母さんは、『この紙袋、和モダンなデザインが素敵だからきいてみたら?』と言うけれど、そんな余裕はなさそうだよ。
イメトレだけで胃が少しキュっとしてくるんだもん。
駅の外に出ると、青先輩が既に立っていた。
あ、私服だ!
背格好が良いからルーズパンツがばっちり似合っている。
トップスは白色のセーターで、偶然にも私とお揃いだ。
青先輩のは、袖の部分だけが爽やかな青色をしていて、雪で編んだような真っ白いセーターとの色合いが素敵だ。
「セーターおそろいだね。かわいい!」
青先輩が腕を広げてくれたから、おりゃーっとその腕の中に飛び込んだ。
「おはよう」「お昼ご飯何食べた?」「ここ何屋さん?」と、しばらく立ち話をしてから手を繋いで歩き出した。
喧嘩して以来会ってなかったせいか、いつもより強めに握っている気がする。
私も強く握り返した。
「すごい荷物だね。レッスンバッグ持つよ」
「レッスンバッグ?ふつう、トートバッグって言いません?」
私が笑うと、青先輩は「小学生の頃によく使ってたから」と耳を掻いた。
「何を習ってたんですか?」
「英語。英会話教室に通ってたけど、やめた途端に忘れちゃった」
「ちょうど英語を教えてもらおうと思ってました」
「受験生だったし教えることはできるよ。青空先生のプライベートレッスンコースを受講されますか?」
「よろしくお願いします。青空先生!」
青先輩の住んでいるマンションは駅から近くて、すぐに着いてしまった。
エントランスに入り、ガラス張りの仕切りに映った自分自身の姿を今一度チェックした。
Aラインのワンピースは、かわいい上に丈は膝下だ。
座っても脚が見えすぎない安心な丈。
その上に白いケーブル編みのゆるいセーターを着て、ワンピースの襟を出している。コートは、そうそう、お宅に上がる前に脱がなければいけないんだった。
それで、コートを腕にかけて、それで、それから、菓子折りだ。
あれ。
なんて言うんだっけ?
あんなに練習したのに。
あたふたとトートバッグから菓子折りを取り出していると、エレベーターの扉がチーンと高く鳴って全開した。
「ブツブツ言ってどうしたの?ほら、降りて」
「ちょっと待ってください。深呼吸しなくちゃ」
「深呼吸?……もしかして、俺が狼になると思ってる?」
「え?狼?」
「あれ、違うんだ?……さあ、どうぞ。あ、親はいないから安心して」
青先輩がリモコンキーをドアに向けると、ピっという機械音が鳴った。
解錠されたドアの向こうには、誰もいない。
「いないんですか?ご両親は?」
「出かけてるって言わなかったっけ?」
「言ってません!!すごくドキドキしてたんですよ!お邪魔します!」
「二人っきりの方がドキドキすると思うんだけど?」
「ドキドキの種類が違いますぅ」
後ろでまたピーと施錠する音がした。
今度は新しいドキドキを気にしまいと、平然を装いながらブーツを脱いであがった。
リビングルームの窓は大きく、陽がたっぷり差し込んでいた。
モスグリーン色のテーブルは丸っこい三角形をしていて、その下に敷かれている北欧風のラグマットの上では葉っぱのように見えた。
その前には大きなテレビが壁にかかっている。
それ以外は何もない。
「スッキリしたお家ですね」
「母さんが置物とか棚とか置かせてくれないんだ。掃除のときに邪魔だって」
「うちと大違いです。私のお母さんは物が捨てられなくて棚の中にさらに棚やら引き出し付きの箱があって、物でいっぱいです」
「見たい。今度はくるみちゃん家に行くからね」
「ぜひ来てください。びっくりしますよ。……あれはキャンドルですか?」
よく見ると、部屋の四隅や机の下のあちこちに置いてあった。
「母さんの趣味でね。うちは天井の照明器具をやめたんだ。上から光があたると太陽みたいでなかなか眠くならないんだって。母さんの寝つきが悪いから、リビングルームはキャンドルと、あのスタンドライトで頑張ってるんだ」
カーテンに隠れるようにしてスタンドライトが置いてあった。
銀色の一本の幹からヒューン、ヒューン、ヒューンと枝分かれして、3つの電球がついている。
「変わったデザインですね。宇宙船の車庫みたい」
「宇宙船!?踊るフォークとか、光るフォークって、うちでは呼んでるよ」
フォークにしては先が丸すぎるけど、言われてみると大きなフォークが立っているようにも見える。
よそのお家は面白いな。
その家の生活臭のような独特な匂いから、間取りやインテリアも自分の家とはまるで違う。
私は手に持っていた菓子折りを紙袋から出して青先輩へ渡した。
「ご家族で食べてください」
「菓子折り?そんな気を遣わなくてよかったのに」
「和菓子の詰め合わせで、羊羹とか饅頭とかが入ってます」
「おお、ありがとう。今、お茶淹れるから。和菓子にはお茶だよね」
「ご家族でどうぞ、どうぞ。あの、今はこっちを食べませんか?ガトーショコラとブルーベリームースケーキを作ってきました」
「さすがくるみちゃん!大きなリュックを背負ってるなって思ってたけど、中身はお菓子だったんだ」
「ちゃんと勉強道具も持ってきましたよーだ」
「座ってて。ガトーショコラには、牛乳だよね」
「はい!でも、他のケーキなら紅茶ですよね」
「わかるなぁ。クッキーには?」
「牛乳!牛乳っていえば、あk……」
「え?何て言った?」
青先輩が冷蔵庫を開けながら振り返った。私は急いで、「あっと、くるみって逆から読むとミルクなんですよ」と言ってごまかした。
「くるみ、み、る、く。ほんとだね。逆から読んでも食べ物の名前だ」
赤星くんの名前をまた出すところだった。
牛乳っていえば赤星くんが牛にちなんだ名前で呼んでくるんですよって。
最初は牛尾田だった。
それから牛丼、牛タン、牛脂、牛乳、ビーフ、牛スジだ。
あと、モウモウさん、なんてのもあったな。
牛尾田でよかったのに。
昨日は私が癇に障る質問をしたせいか、不機嫌にさせてしまった。
駅で見かけたことの何がいけなかったのかな?
私はケーキを持ってキッチンへ行った。
こちらも片付いていて、台の上に出ているのはまな板だけだ。
ブルーベリームースケーキは少し冷蔵庫に入れて休ませた。
ガトーショコラは、それを入れるケーキ箱がなかったから、白色のレースペーパを敷いて、茶色系統のチェック柄のラッピングペーパーで包み、黄色のリボンでフレンチボウを作って両面テープで貼った。
花の名札をつけられたガトーショコラは、これで特別なプレゼントにランクアップした。
「いつもおごってもらっているので、たくさん作ってきました。冷蔵なら数日は持ちますよ」
「俺が残すと思う?写真撮らせて」
スマホで一枚撮って、「どうせ全部食べるんだから、切り分ける必要ないよね」と言った。
こういう大雑把というか、お皿に移さないところも男子っぽいというか。
フォークとミルクの入ったグラスを2つずつリビングへ運んだ。
「しっとり~!」
「メレンゲが混ぜてあるから、ブラウニーのような食感にはならないんです」
薄力粉の量も違うから、と続けるけれど、青先輩は食べることに集中しているせいで、味覚と嗅覚以外の感覚はあまり働いていないようだ。
「おいしいおいしい」と言いながら口に運んでくれる様子を、今度は私が写真に収めた。
表面にふってある粉砂糖が口周りについている。
表面に入ったひび割れを隠したくて、少し多めにふるったんだった。
かわいいからそのまま撮っちゃえ。
カシャ
「さて。はじめよっか」
青先輩はガトーショコラを飲みこみながら言った。
「英文を一緒に訳してくれませんか?いつも不自然な日本語になっちゃって、結局何が書いてあるのかわからないんです」
相談したら、英文法の説明をしながら訳す順番を教えてくれた。
行間はかぎかっこや矢印、下線で溢れた。
「ここからここまでが名詞句でね」と、斜線で区切られていく長文。
「読解スピードを速くするコツは、日本語に訳さないことだよ。日本語にするとこうかなって考えてると遅くなるから、英語のまま理解していくんだ。慣れるまでは、ぼんやりした理解でもいいからさ」
そんなことネイティブにしかできないのでは、と思いながらも、長文をさらっていくうちに、簡単な長文であれば自分でもできるようになった。
「わかってきたかも!ありがとうございます青先p、いえ、青空先生!」
「よかったね。次は、単語の強化だ」
「はい!」
「一問一答クイズ!まずは名詞から!」
Accomplish 成し遂げる、
admire 賞賛する……。
きっとこうして一緒に覚えた単語は忘れないだろうな。
普段なら一人で赤シートを動かしても、peel皮をむく、spill こぼす、Squeeze 絞る・搾る、などの料理に関係ありそうな単語しか覚えられた気がしないけど、今はより深く頭に入っていく。
時計の長針が3周したころには、「もう使わないから」と、お古の英単語帳までもらった。
「ちゃんと反復練習するんだよ」
「はい先生」
「よし。休憩しよっか」
ガトーショコラはとっくに胃の中に消えていて、冷蔵庫からブルーベリームースケーキを出してきた。
ひんやりしていて、滑らかで、とても食べやすいのがムースの良さで、トッピングしたシルバーのアラザンが水滴のように光っている。
一口食べた青先輩は「くりーみぃ」とうなった。
先輩が牛乳のおかわりをしている後ろ姿を見ていたら、眠気が襲ってきた。
脳が勉強して消費したエネルギーを補給しようと、ムースケーキの糖分を吸収し出したのかな。
「くるみちゃん。3杯目はオレンジジュースにする?」
―――違うかな。
ガトーショコラの糖分かも。
「おーい。くるみちゃん?」
―――今のは青先輩?睡魔の声?
あああ、眠たい。
「くるみちゃん」
―――起きてるよぉ。ちゃんと起きてるよぉ。
「寝ないでよ。狼に襲われたいの?」
―――おーかみぃ?
「白いセーターなんか着て、本当に羊みたいだね」
―――セーター……お揃いだった……
「起きたほうがいいよ」
―――おきてるってばぁ……
「狼が食べちゃうぞー」
―――おき……て…………
「カプッと食いついちゃうよ」
―――……
「俺の部屋にしなくて正解だったな」