青空くんと赤星くん
「やめてっ!赤星くんだめ!」
やめてくれなかった。
低くかすれた声で、「もう一発ぶちかましてやる」と大きな右腕を振り上げた。
「ヒッー!」と男が金切り声を上げて、涙を流した。
「やめてっ!骨が折れちゃうよ!」
私が二の腕を押さえると、男の鼻先数ミリのところで、げんこつの形をした手が止まった。
赤星くんはやっと我に返ったのか、ハッとした顔つきで私を見た。
「……怪我ないか?」
「わ、わたし?……ないよ」
首はもう痛くなかった。
それよりも、下にいる男の方が痛そうだ。
口から血が流れている。
「それ以上パンチしたら死んじゃうよ!暴力しちゃだめ!」
「パンチじゃねぇ。俺はボクサーじゃねぇぞ」
私の頭では、柔道は取っ組み合い、空手は蹴り合い、ボクサーは殴り合い、のイメージだ。
柔道にパンチはない、ということかな?
「とにかく、血が出てる。……あの、聞こえますか?彼は有段者ですよ。もう暴れないですよね?」
「はい……」
男は虫の息で答えた。
パンチがめりこんで、口の中が切れてしまったのか、話しずらそうだ。
「おいクズ。首絞めってのは殺人未遂だぞ。次暴れたら、俺が絞め技をおみまいしてやる。それか、そうだな。関節技でじっくりなぶってやってもいいぜ」
「もうしません……」
完全に男を掌握した赤星くんは、でもいびり足りない、という目を露骨に向けながらも退いた。
男は圧迫から解放された肺でゼェゼェと息づいた。
「警察を呼ぶぞ。社会的制裁をくれてやる」
「それだけはっ!ご勘弁を!」
男は地面に手をついて懇願した。
今気がついた。
男はスーツを着ている。
サラリーマンだと警察沙汰はダメージが大きいのかもしれない。
「クズには報告義務があんだよ」
赤星くんが男の自転車のカゴに入っている鞄から免許証を取り出して、それをスマホで撮った。
「な、なにをする!」
「うっせぇ。クズは黙ってろ」
「まって赤星くん。ぶつかったわけじゃないの。ただびっくりして、叫んだだけなの」
「あ?」
どういうことだよ?とギロリと睨まれて、私も体が震えた。
サラリーマンが「そ、そうだ!ひいてなんかないんだ!お、俺は、こいつの悲鳴に驚いて、転んだんだ!むしろ被害者だ!」と身構えながらまくしたてた。
「ひ、被害者は私です……!首を絞めたじゃないですか……」
「あれは起こしてやったんだっ!」
「そんなっ」
「黙れ!俺は助けてやったんだ!」
「か、仮にそうだとしても、でも、『ひき殺すぞ』は脅迫罪だと思います」
男は私を悔しそうな顔で見た。
赤星くんがいるせいか、妙に気が大きくなれた。
たぶん男は赤星くんの大人びた見た目と上からの物言いに、相手が高校生だとは気づいていない。
その確信もあって、私は睨み返してやった。
スーツを着た一端の社会人ではあるけど、でも嫌な大人なのは確かだ。
私は赤星くんの方を向いて、「お互いに怪我もしてないし、自転車も壊れてない。大丈夫だよ」と言った。
すると男が「け、警察の介入は必要ない!」と素早く3回も頷いた。
男は警察を呼ぶことに否定的だ。
助かるのはむしろこっちっぽいのに。
というのも、蹴ったり殴ったりした赤星くんは、暴行罪にあたってしまうんじゃないかと思うからだ。
あれは明らかに、正当防衛の範囲を超えていた。
相手が地面に伏していたのに、腹を仰向けにして、馬乗りになって殴りかかった……。
それが心配だから、私は警察を呼びたくなかった。
この場で示談してほしい。
私と男はいがみ合いながらも、意見は一致していた。
この場を支配している赤星くんがどうでるか、私たちは注目した。
彼は首をコキっとならして、男の方を見て尋ねた。
「ライトがついてねぇけど」
「あ、ああ。で、電球が切れてて」
そう言われてみればそうだ。
この人が曲がり角から出てきたとき、ヘッドライトの光はなかった。
赤星くんは転がっている自転車の前でしゃがみ、スマホの明かりで照らしながら「LEDってあんじゃん」と言った。
「錆びてるとかだろ。修理に出せ」
「は、はい」
「それまで乗るなよ。周りが迷惑だ」
「は、はい」
「うぜぇから、もう消えろ……」
退場の許可が出て、男は急いで自転車を跨いで帰ろうとした。
それを赤星くんが後輪を踏みつけて止める。
「5万円以下の罰金をくらいたいのか?チャリだって無灯火は違反だぞ」
「あっ、いや、ついつい」
男は慌てて自転車から降りて、ハンドルだけを押して走り去っていった。
無理もない。
私も赤星くんが怖かった。
怖いを通り越して恐ろしいというか、怒りという火薬で爆発したいのに、しけっているせいで破裂できない、そんなかんしゃく玉をポケットに入れているようで。
今もまだ握られている拳が、また誰かを殴るんじゃないか、という気にさせる。
でも、よく見てみて。
目がすごく悲しそう。
「赤星くんどうしたの……?」
そんな顔されると、自分の悩み事かのように気になっちゃうんだよ。
「……泣きたいの?」
「……5回目。泣いてんのは牛蛙だろ」
そうやって、またはぐらかしたり沈黙を貫いてやり過ごしたりしないで。
私は赤星くんのきつく握られている手をそっと包んだ。
柔らかくほどけるまで、温めてあげたいと思った。