青空くんと赤星くん
階段を上がっていくポニーテールの美人には見覚えがあった。
3年生の梨華先輩だ。
一見して無造作に見えるポニーテールだけど、実は計算された絶妙なゆるさ加減でまとまっている。
袖から指先だけがチョンと出て可愛らしいけど、強張った表情でたまにこちらを振り返り、ちゃんとついてきているか監視していた。
3年生の階は廃校舎のような雰囲気を漂わせて静まりかえっていた。
3組の教室へ入ると、梨華先輩は一番前の窓側の席に座り、脚を伸ばしてその隣の椅子を蹴った。
そこへ座れって意味かな……?
大人しくそこへ座ると、「優翔を泣かせないで」と切り出した。
声に怒りがにじんでいる。
優翔。
下の名前で呼び捨てするんだ。
仲良しみたいだけど、青先輩から詳しいことは聞いてないんだろうな。
泣きたいのは私の方なのに。
「用事って青先輩のことですか?」
「他に何の用があるわけ?」
「えっと、泣かせないでって、あのストリートピアノの動画のことですか?」
「そう」
「あの、どうして私のせいで泣いてるって思われたんですか?」
「優翔の友達から少し聞いた。おまえとうまくいってなくてまいってるって」
「それなら、青先輩のところへ行ってあげた方が……」
梨華先輩は口をつぐんだ。
口紅を塗って学校に来たのか、ビビットなピンク色をした唇にしわが寄っている。
ピリピリした空気が静電気と化して雷のように落ちてきそうだ。
「おまえに言いに来たんだよ、別れろってな!おまえなんか相応しくない」
「そのことについては、その、先輩が口を出すことでは……」
「梨華はっ!優翔の一番の理解者なのっ!」
歯を食いしばっている。
さっきよりもイライラして、嘘までつき始めた。
一番の理解者だんてそんな。
このままでは空中放電を起こしかねない。
梨華先輩の用件は聞いたし、もういいよね。
私は席を立って前のドアに向かった。
「待ちな!」
「まだ何か用ですか?」
「……」
「……失礼します」
「………………姫って私よ」
声を引きつらせながら明かされた真実に、私は思わず足を止めて梨華先輩を見た。
その顔は、切り札のつもりだったろうに、どこか影を落としていた。
梨華先輩が姫。
姫は現実世界にちゃんといた。
この学校に生身の人間として存在していた。
私は狼狽えた姿を見られるのがいやで、妙に冷静になって椅子に座り直した。
本当は何億ボルトもある雷に打たれて死にそうなんだけど。
だって、前に梨華先輩は姫の投稿に『やめてあげて』って言ってくれた優しい人だ。
自演自作だったなんて。
「複数のアカウントを持ってるんですね?」
「そう」
あそこに群がったみんな、全てあなただったらいいのに。
アイスが言うには、姫は青先輩が今日こんなことをしてかっこよかった、など彼に関する情報をよくつぶやくらしい。
それで彼が振り向いてくれるわけでもないのに、2月に入って登校日が減っても毎日投稿しているそうだ。
まるで初恋に浮かれる乙女みたいだけど、でもその内容は最近病的で、妄想と現実の区別がついていないことが多い、と言っていた。
卒業を目前にして焦っているのかもしれない。
正体がわかってしまうと、姫という大きな敵がただのリアコにしか見えなくなった。
なんだ、ただのJKなんだね。
「言っとくけど、優翔に梨華が姫だってことばらしても無駄だから。優翔はおまえより梨華の言うことを信じるからね。梨華と優翔は1年生のころからすごく仲いいの」
「青先輩には黙ってますよ」
「は?余裕ぶってんの?」
「そういうわけではないです」
「ははーん、わかった。梨華に媚売って、攻撃するのやめてほしいんでしょう?」
「攻撃ってなんですか?」
「白々しい。梨華以外のファンから攻撃されてるくせに」
「ブロックしてるので見ていません」
「……」
「先輩に気に入られる筋合いはありません。ただ、青先輩と約束してるんです。姫を探らないって」
「そんな約束したの……?」
『無視するのが最善策』って青先輩が言ってたから。
ただいま約束を破いて応戦中だけど。
「探してもくれないんだ……。こんなに愛をささやいてるのに……」
梨華先輩は斜め後ろを向いて中央の一点を見つめた。
耳の横から緩やかに流れるおくれ毛が悲壮感を漂わせて、嫉妬に狂った涙を美しく見せている。
虚ろな目から雫が落ちてきた。
姫のイメージが一掃されて、どうして青先輩はこんな美女より私を選んだのかな?と急に先輩がわからなくなった。
「梨華の方がおまえよりずっと人気者だし、美人で可愛いのに……。勉強もできて親も金持ちだし、性格もいいのに……」
「……」
自分で言いたくないけどさ、たしかに私は梨華先輩に勝てそうなものがなかった。
取り柄という取り柄が私にはない。
学校で『甘いもの食いしん坊選手権 女子部門』があればぶっちぎりの一番だけど、そこは『かわいい部門』でないと、『イケメン部門』の青先輩と釣り合いがとれないよね。
先輩なら、『甘いもの食いしん坊選手権 男子部門』でも一番を獲得できるだろうから二冠達成だ。
「梨華を見てよ……」
その表情からはなんの感情も読み取れなかった。
ただただ、涙が頬をつたっていくだけだ。
実は、人気者の彼女になったらそれなりに人気者の彼女じゃないと悪目立ちするんじゃないかな?という不安があった。
それなりに人気者の子、というのが梨華先輩みたいな人だ。
梨華先輩は私が羨ましいかもしれないけど、私も梨華先輩が羨ましいんだよ。
「優翔は梨華を見るべきなの。優翔と別れて」
「……帰ります」
「はぁ?」
通せんぼするように立ち上がって、片足で私の足を踏んづけてきた。
梨華先輩の場合は、羨ましいというよりも妬ましいが適切だったようだ。
「梨華はね、優翔のことが大好きなの。どうして奪うなんてひどい真似ができるの?」
「奪うって、青先輩はフリーだったんですよ」
「だからなに?梨華の方が早く好きになったし、梨華の方がずっと愛が強い」
「……」
「やっと王子様に出会えたんだもん」
物欲しげな顔で言った。
王子様か。
だから姫なんだ。
「3年間ずっと同じクラスだった。梨華と優翔は運命の相手で間違いないもん!」
芸術鑑賞会の劇に影響を受けた人がここにもいた。
足を引っこ抜こうにも、上から体重をかけられては動けないどころかもっと強く踏んできた。
ギュっと足先に力を入れると、梨華先輩は甲高い声を上げてわめいた。
「優翔は梨華のもの!梨華は優翔のもの!梨華と優翔が絶対に結ばれるべき!」
こういうことだったんだ。
無視が最善策だという青先輩のアドバイスがやっと腹に落ちた。
彼女を乙女だと感じたのはとんでもない誤解だった。
私は踏まれた自分の足を見て、彼女の歪んだ口を見て、一気に怖くなった。
逃げなきゃ……!
「こんなに大好きなのに、嫌なことばっか!いっつも見てる梨華を当たり前だと思ってる。優しい梨華を当たり前だと思ってる!ほうっておかれたら悲しい……。優翔のためならなんだってしてあげるのに。梨華より優翔のことが好きな子なんていないのに!」
私は立ち上がり脚全体の筋肉を力ませて上に引き上げた。
梨華先輩はのけ反って後ろの椅子に倒れるように座った。
私の上履きには彼女の黒い足跡がついていて、その部分が痺れて動きにくい。
「いたい!乱暴にしないで!梨華から優翔を奪ったくせにこんなことまでするの!?信じられない!……優翔に会いたい……会わなくちゃ……!」
梨華先輩が自分の頭からヘアピンを取って、「会うためにはおまえを消さないとね」とにじり寄ってきた。
「こっちにこないで……」
「梨華に返してよ。優翔と別れてよ。……もう優翔に近づかないで。優翔と話さないで。優翔を見ないでっ!」
「こないで!」
梨華先輩は二つ折りのヘアピンを真っ直ぐに伸ばし、鉛筆を持つように握った。
「目、潰してやる」