Actress〜偽りから始まるプラハの恋〜
その日の夜、仕事のトラブルで帰宅が遅くなった僕は、シャワーを浴びると、先に寝ていた環菜を起こさないようにそっとベッドに潜り込む。

静かにしたつもりだったが、わずかなベッドの軋みで目を覚ましたのか、環菜が眠そうな目で振り向いた。

「おかえり。遅かったね」

「うん、ちょっと仕事でトラブルがあってね。起こしてしまってごめん」

「ううん、全然大丈夫」

問題ないというように首をゆるく振ると、環菜は身体を動かして僕に抱きついてきた。

腕を僕の背に回し、背中を撫でるようにしている。

「お疲れさま」

どうやら労ってくれているようだ。

ちょっと寝ぼけたようなトロンとした目をしながら、こんな可愛いことをされ、思わず僕も強く抱きしめ返した。

「今日ね、皆川さん経由でNetfieldから衣装イメージが届いたんだけど、豪華でビックリしちゃった。日本のドラマとは予算が全然違うんだなって思って」

僕の胸に顔を埋めながら、今日あったことを報告してくれる。

その話を聞きながら、僕も辞令のことを今言ってしまおうかと思った。

「あのさ、環菜‥‥」

「ん?どうしたの?」

僕の切り出しに、しっかり話を聞こうとしたのか、胸から顔を離して、見上げるように環菜が顔を上げる。

目が合って、環菜の瞳に見入っていると、日本に戻って離ればなれになったらこんなふうに毎日抱きしめたりすることもできないんだなと思った。

そう思うと言い出しづらくなり、珍しく僕が言葉に詰まってしまった。

「‥‥いや、なんでもない。もう遅いし寝よう」

「‥‥?うん、そうだね」


しばらくすると、環菜からは静かな寝息が聞こえてくる。

僕の腕の中で安心しきった顔で眠っているのだ。

その顔を見ていると、辞令なんて無視してこのまま環菜のそばにいたい衝動に駆られる。

外交官がこういう仕事だと理解し、日本でも海外でもどこへ行くことを命じられても粛々とこなしてきたが、初めてこの仕事のこういう部分を恨めしく思った。
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