朽ちぬ花嫁
神様
……あれは、十になる年の春だったでしょうか。幼い頃の朧気な記憶の中で、一番鮮明に残っている像。
優しかった五つ上の姉様が、美しくお化粧をされ、煌びやかな花嫁衣装を纏い、まるで天女のようなお姿で、家を出てゆかれた日のことです。
その後、姉様とは、二度とお会いしておりません。
『守神様に嫁がれたから、俗世の人ではなくなったのだ』
そう両親に言われ、寂しいけれど自慢の姉だと、無邪気に思っておりました。
ですが、いつ頃からだったでしょうか。それ迄は……
「綺麗……! 綺麗……!」
降り注ぐ薄紅の花吹雪を浴びながら、人知れずはしゃぎ回る位に大好きだった、村外れの桜の木が、妙に哀しく思うようになったのは……
私が暮らす村の森の奥深くには、人目を避けるようにひっそりと立っている、立派なサクラの大木がございました。
村の守り神を祀る、貴き御神木とされていましたが、童が参る事は、何故か、固く禁じられておりました。特に、神職に携わる一族だった私の家は厳しく、例え両親と同伴でも、決して許されなかったのです。
村の大人達は、しきりに出掛けては、御神木に手を合わせ、泣きながら何かを必死に祈ったり、普段の食事を倹約してまで、豪華な供え物をしているのにどうしてだろう、と不思議に思っておりました。
しかし、両親の目を盗んでこっそりと赴き、降りしきる美しい花吹雪を浴びながら、祖母に教わった舞を踊り、詩吟を唄い、桜と語る事が、特殊な家柄もあり、友が少なかった私の、唯一の安息で、心の拠り所だったのでございます。
物心ついた頃、我が村では、毎年、桜が終わる頃になると、原因不明の病が流行り、村の方が大勢苦しみながら亡くなるのだ、という事を知りました。
その頃になると、何時にも増して、私の家の神社には、多くの人が熱心に御詣りに来られます。隣近所に住まれている婆様も、よく参拝されていた親子の坊やも亡くなったのだと聞き、我が家にも、いつかその番がくるのだろう、と幼いながらに怯えていました。
そして、姉様が嫁いでゆかれた後日、由緒あるという我が一族に、他家から嫁いできた母に呼ばれ、神妙な面持ちで真実を言われました。
私の家系の女は皆、十五になる年、その春の桜が満開の頃に、我が村の守神様の元へ嫁ぐのだと……
『何時も村を見守り、万能のお力で助けて下さる、至極ご立派な方。そんな方の元に嫁にゆけるのは、大変名誉あることなのですよ』
普段あまり笑わない母が、珍しく嬉しそうに、誇らしげにそう語っていたのを覚えております。
『我が一族の者が嫁いでゆく事で、守神様は、この恐ろしい病を鎮めて下さるの。次は、貴女が尽くしなさい』
とも言われ、さぞかし、徳を重ねた高貴な方なのだろうと、少女なりに、未来の夫になる方への憧れを募らせていたものでした。
ただ、その日から、母は勿論、父、祖父母、兄妹とさえ、触れ合うことを禁じられました。食事も別室で一人で摂る。会話も、必要最低限しか許されない毎日。
里心がついて、嫁ぐことに躊躇いが出たら困るからだと諭されましたが、寂しくて寂しくて堪らなかった。外出もままならず、友も少ない私は、益々、まだ見ぬ桜の神様に想いを馳せ、幾度も一人泣いたものでした。
しかし、数年後、大好きだった父様が、例の病で苦しみながら亡くなってしまい、益々、その日を待ち侘びるようになっていました。
姉様が嫁がれても、疫病は、まだ収まる気配は無い…… 私も守神様に嫁いでお願いしたら、皆助かるかもしれない。そうしたら悲しむ人も減るのだと、そう信じることで、心細さに耐えておりました。
――そんな年月を経て迎えた、十五の春。その頃には、その桜の守神様は、実体化したお人ではない、という事実を知らぬ程、私は、もう幼くはありませんでした。
嫁ぐというのも、神様と床を共にして一体になる…… つまり、桜の木の下で、共に眠るということなのです。
本日、私もその守神様の元へ……輿入れ致します。
「巫女様。今宵は、誠にめでたき事でございます」
神社に仕える下女と髪結いの方に、濡羽色の黒髪を襟足から結い上げ、憧れだった白粉と紅を施され、姉様と同じように純白の花嫁衣装を纏いました。
そして、母から渡された、絹地に包まれた小さな瓶を懐に忍ばせます。床に入る直前に口にするという、祝い酒の代わりなのだそうです。
三日三晩、神社の地下の神水で身を清め、口にしたのは、その水だけ。断食という禁欲を行って、心身共に、なるべく俗世と離れた、清いまま嫁ぐ事が重要だからです。
虚ろな頭で重い身体を懸命に動かし、棺に横たわると、しばらく外を目にしなかった眼に滲みる位に、澄んだ青空が映ります。白黄金色に眩く輝く太陽の、やけに哀しいこと……
サクラの守神様、貴方は今、どのような面持ちで、私を待って下さっているのですか?
顔見知りの村の方から、私の胸元や腹に、次々と純白の折り鶴や、色とりどりの美しい春の花が投げ入れられます。ふわり、ふわり、と舞い落ちる、花嫁の幸を願う贈り物。私が大好きな花ばかり……
「巫女様、有難うございます」
皆様、泣いておられます。手を合わせながら繰り返し呟かれている方、必死に祈りを捧げておられる方、そして、人目を憚るように、口元を手拭いで押さえていらっしゃる方が、数人……
毎年、神社に祈りに来られる方々と、同じ風合いの瞳が、幾つも見えます。
家族と離され、十を過ぎた頃から、何時も思っておりました。万能のお力を持つ守神様は、何故、この方々を、今すぐ助けて差し上げないのでしょうか? 先に嫁いでゆかれた、姉様のお力だけでは、何故足りないのですか?
今、この方達は、あなたの救いが必要なのでしょう? 何故、あなたは、何も手を差し延べないのでしょうか?
目に見えぬ恐怖に晒され、どんなに泣き叫んでも、どんなに苦しめられても、為す術を持たない。そんな弱き無力な方々を、あなたはお救いになるのだと、幾度も、幾度も、幼い頃から聞きました……
村の男衆に棺ごと担がれ、守神様のおられる桜の木へ向かいます。
ガタ、ガタン、と時折、揺れる棺。道行く途中、数少ない友だった、幼なじみの子が唇を噛みしめながら、彼女の家の玄関先から、こちらを見ているのが分かりました。
村を抜け、山道に入り、段々と奥深く進む頃には、視界の青空が黄昏に変わり、御神木に着く頃には、いつの間にか宵に落ちておりました。
ちらほらと視界に入る、幼い頃と変わらず、美しい薄紅の花吹雪。星が瞬く宵闇に映え、尚、幻想的に衣替えた夜桜の光景……
ぼんやりと魅了され見入っているうちに、予め、木の周りに掘られた寝所に、ぴたりと嵌め込むように、棺が置かれていたようです。
すっかり夜の帳が落ちた、視界一面に映る星空に、少しずつ封がされ、目の前が闇に染まっていくのが判ったので、渡された布包みを開き、中の小瓶の中の水を、一気に飲み干します。心地好さが強まり、意識が遠退く頃、初めて守神様と御対面できるそうです。
続いて、微かに漂う、土の匂い。神様は、どちらから現れるのでしょう……
薄らいでゆく意識に比例して、息苦しい感じも増します。守神様、早くいらして下さい…… 目の前は真っ暗で、何も見えません。
花に囲まれ、棺に横たわる白装束の女…… 花嫁衣装ではございますが…… これでは父様が着ていらした、死装束のようです……
心許なくなり、ふと、手元の花を手に取ると、独特の小さな丸い形の、花弁が開かれていない花が……
千日紅。好きな花でした。暗がりでも濃い紅色なのが分かります。摘まれてもあまり枯れないことから、確か花言葉は、色褪せぬ愛、そして、不死、不朽……
「……ふ、ふ……あは、は……」
気づいたら零れていた、力無く掠れた笑い。幾日ぶりに聞いた、自分の声……