Ray -木漏レ日ノ道へ-
「終わるまで目、閉じててね」

どくどくと心臓の音がうるさい。深いムスクのような香りに溺れそうだ。
彼の顔が近付いてくる気配に、呼吸を止めてしまう。

「苦しくないの?」

気づいた彼の囁くような声に何度も小さく頷く。
左側の首筋を冷たい指先でなぞられ、次いで同じ場所へ小さなリップ音と共にキスがひとつ。

今からきっと噛まれる。

──と、覚悟していたというのに、何故だ。

「……なんでやめたんですか」

「だって震えてるからさ」

「覚悟はできてますから、ガブッといっちゃってくださいよ」

「いや、無理やり襲ってるみたいでなんだかなあ……」

今までの時間はいったい何だったのだろう。
懇願されたから意を決したというのに、ここまで来て身を引くとは吸血鬼というより天邪鬼だ。

「ヴァンパイアのくせに変に律儀ですね」

「人間と同じでいろんな奴がいるよ。昔、血を提供してくれた人が真っ直ぐな性格の剣士だったから影響されたのかも」

「剣士って……」

なんだかどっと疲れが襲ってきて、襟を正した私は彼から距離を取って深く息を吐いた。

ふと見上げれば、灰色だった空はいつの間にか漆黒に変わり、白く浮かんだ月が存在を主張している。

月とヴァンパイアというまるでファンタジーのような光景に、これが一夜の夢であったならと思ったけれど。

「近々またお願いしに来ると思うから今度は怖がらないでね」

「また来るんですか? 他を当たって貰えませんか」

「オレのこと見える人って稀なんだよ。そう考えたらラッキーだと──」

「思いません」

彼の言葉に重ねるように私が言い切ると、よほどそれが面白かったのか声を出して笑われた。

「なんか君、強いのか弱いのかわかんないね」

やがて彼は指で目尻を拭うと、笑い疲れたのか子供の姿に戻っていった。その光景はまるで魔法のよう。

「やっぱりボク、お姉さんの血がいいな。今はお姉さん以外、考えられない」

大人のレイくんとは違う少年の高い声で紡がれた言葉は、その姿に似合わず扇情的だった。

何故だか私が悪いことをしているような気分になってしまうほどに。

「またね、お姉さん。すぐにまた会いに来るね」

小さな牙を覗かせて天使のように無邪気な笑顔を浮かべたヴァンパイアの少年は、一瞬にして姿を消した。

呑気に歩く黒猫を見つけ、やっと現実に戻って来れたような安心感を得たけれど──
しばらくの間私はベンチから立ち上がることができなかった。
< 7 / 28 >

この作品をシェア

pagetop