Ray -木漏レ日ノ道へ-
あの日の彼女の様子を思い返してみるが、おかしなことは何もなかったように思う。

強いて言うなら帰り際の香水事件で少し具合が悪そうにしていたか。
しかし、いくらなんでも匂いが原因で一週間も体調を崩すなんて思えない。

真面目な性格だし、仕事が楽しいとよく言っていたからズル休みだってしないだろう。

「咲子さんにだって何か人には話したくない事情の一つや二つ、あるでしょ」

彼の言うことはもっともなのに、すんなり引き下がれないのは弟のことがあるからだ。

無事が確認できたら事情なんてなんだっていい。
もう身近な人を失いたくないだけだ。

「あの日、スタッフルームに香水の匂いが充満してたの。そういうのに敏感な子だから、それが原因かもって少し考えたんだけど」

「人間はそれで一週間も音信不通になるくらい寝込むの?」

「そんなわけない。でも、あれが何か毒物だった可能性とか……」

「それなら他のスタッフも体調崩してるはずだよね。いや、待って」

レイくんは口元に手を当てて何か考えるような素振りを見せた。

「何か思うことがあるなら教えて。私の血ならあげるから」

食入るように彼を見つめれば、ばつが悪そうに視線を逸らされた。

「お姉さんさあ、今後そういうこと簡単に言ったらダメだよ」

「だって私の血が欲しいんじゃないの?」

「それはそうだけど……ああ、もう」

自らの髪をくしゃっと乱暴に掴んだ彼は、あからさまに深いため息を吐く。

そうして私に向き直ると勢いよく腰に抱きつかれ、バランスを崩しそうになったところを一瞬で大人の姿に変わった彼が支えてくれていた。

やはり顔色は青白く瞳も曇っているけれど、近くにある綺麗な顔に動揺して息をすることを忘れそうになる。

「君がその覚悟なら、オレも協力する」

大人姿のレイくんは色々な意味で心臓に悪いのだが、いくら私にしか見えないとはいえ少年姿の彼といるのも背徳感があった。

私が受け入れればいい、早く慣れろと頭の中で自分に言い聞かせた。

「──話を戻しますけど、何か思い当たることが?」

「ああ、うん」

彼は再び何かを考え込むように、口元に手を当て歩き始める。
私は慌てて後片付けを済ませ、彼の後を追った。

日が沈み始め気温が下がり、白く広がる空はやがて雪を降らせるだろう。

「あの、とりあえず建物の中にでも……」

すぐ近くにある美術館へと場所を移した私たちは、人気のない休憩スペースで向かい合うことにした。
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