あの時、一番好きだった君に。-恋恋し編-
大学3年:春

1. 出会い


 ――何度考えても、思い出を上書きしようとしても。あれほど楽しくて、恋しくて、悲しくて。喜怒哀楽にまみれた日々を、私は知らないし、消し去ることも出来ない。
 大学生活の、最後の2年間。私、藤田千景にとって、当時のその時間はかけがえのないものだった。

 ――大学3年生へと進級した、その春のこと。

 私は大学3年になり、今まで働いていたアルバイト先を辞め、新しいアルバイト先へと移った。今までカフェの仕事はしたことがなかったが、飲食店のホールの経験はあったし、面接の時の店長の感じも良かったから、特に心配はしていない。
 一度、面接の前に食事をしようと訪れたのだが、その日出された本日のランチセットがとても美味しかったのを覚えている。すぐに忘れるほど昔の話でもないが、野菜も多く、ワンプレートに綺麗に盛り付けられたそれらは、大いに食欲を増進させた。
 それに、店員の人達はみんなニッコリと接客をしていて、お店の第一印象も良かった。……何より、着ている制服が可愛かったのだ。不純な理由かもしれないが、動機としては十分だった。私が働こう、と思うのに、味も環境も人も制服も。全てが訴えかけてきたのである。

「――ええっと。朝礼を始めます。はい、じゃあ、まず初めに。今日から働くことになった、大学3年生の藤田さん。一言、いい?」
「はい! 初めまして、藤田千景です。カフェでの仕事は初めてなので少し緊張していますが、よろしくお願いします!」

 言い終わると同時に、頭を下げる。朝の朝礼時間。私は今日から、このカフェ【SchwarzWald】で働くのだ。初め読めなくて、検索した。【シュヴァルツ ヴァルド】と読むらしい。ドイツ語で【黒い森】という意味だそうだ。なんとなく、カッコイイと感じた。
 決して大きなお店では無いが、アットホームでどこか暖かい気持ちになる。

「よろしくお願いします!」

 みんなの言葉と、拍手が一斉にホールへと響いた。一様に笑顔を浮かべており、歓迎されているようでホッと胸を撫でおろす。初めてはどんなことでも慣れない。緊張するのだ。

「どうする? 一通り自己紹介する?」
「別に要らないんじゃない? ここにいる人名札付けてるし」

 そう言って自分と同い年くらいの女の子が、エプロンに付いている名札のケースを指差した。そこには、可愛らしい太字のポップ体で【鮎川 広絵】と書かれていた。同じく可愛らしい、苺のイラストと共に。

「うーん。それもそうか。ひととなりは、話していけばわかるしね。一応。面接の時にも言ったけど、店長の相崎春人です。宜しくね、千景ちゃん」
「あ……よろしく願いします」

(千景ちゃん? ビックリした、名前で呼ぶのね……?)

 友人間では名前で呼ばれていたが、以前のアルバイト先では、名字で呼ばれていたし名字で呼んでいた。……あまり、人間関係が良くなかったこともあるかもしれないが、きっとお店の風潮だろう。なんとなく、年上の男性に【ちゃん】付けで呼ばれるのはこそばゆい。
 ――だが、特に悪い気はしなかった。なんとなく、早く仲良くなれるような、向こうも、早く仲良くなることを望んでいるような気がして。

「じゃあ、広絵」
「はいはい?」
「千景ちゃんに、ルールとか教えてもらっても良い?」
「良いよ」
「いじめちゃ駄目だよ?」
「そんなことしないし! ちょっと相崎さん酷くない?」
「冗談だって。俺、朝の準備あるから悪いけどよろしくね」
「もー。いこっか、ちかげ、ちゃん?」
「あっ、はい!」

 鮎川さんに連れられ、一通りの説明を受ける。といっても、多くは作業をしながら覚えるらしい。テーブルの番号だとか、お客さんを案内する時の声出しだとか。他に洗い物を下げる時の声掛けに、キッチンへ入る時と、洗い物をお願いする時の言葉。それらはどこも似ているようで、以前いたお店と、そう変わらなかった。
 物の配置やトイレや休憩の時の隠語は、1番2番の番号で伝えるらしい。お客さんへ分からないようにするための配慮だろう。

 今説明をしてくれている鮎川さんは、ショートボブのよく似合う、どちらかというとボーイッシュな感じの女性だ。今時のメイクに、綺麗なティーブラウンの髪色。高めの可愛らしい声で、ハキハキと喋っている。人懐っこい。

「ところで、千景ちゃんて幾つ?」
「私はハタチです。今年、21になります」
「えっ、そうなの? じゃあ、広絵と一緒じゃん。広絵も今ハタチだよ。タメ口で良いよ。それに、広絵って呼んで? 私も千景って呼ぶから」
「う、うん、分かった。えっと、広絵?」

(おぉ……結構グイグイ来るのね……)

「うんうん。千景は、学生さん?」
「大学通ってるよ。今は大学3年。広絵は?」
「広絵はフリーター。美容の専門通ってたんだけどね、辞めちゃった」
「そうなの?」
「そうそう。あんまり合わなくって。楽しかったんだけど、人間関係とか、カリキュラムとか。……あ、じゃあ千景は2人目の大学生だ」
「2人目?」
「ここはフリーターが多くてさ。あとは社員ね。パートさんもいるんだけど、平日お昼じゃないとあんまり会う機会無いかも。……えーっと。……あぁ、いたいた。航河!」
「……はい?」
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