純愛メランコリー
「────もしかして、覚えてんの?」
耳元で向坂くんがささやく。
低めたその声は掠れ、余韻を残していく。
そのせいで何を言われたのか、理解が一拍遅れた。
はっとした私はつい、瞠目したまま彼の方を見やる。
(やっぱり、記憶のこと疑われてる)
そう認識した途端、ブレザーのポケットに入っている鏡の存在を強く意識した。
何がなんでも奪われるわけにはいかない。
私の視線に応じるようにこちらを見た向坂くんは、そっと身を起こし、壁からも手を離した。
息をつくように笑う。
「なわけねぇか。今回は鏡も関係ねぇし」
(え……?)
思わず聞き返しそうになって、すんでのところでこらえた。
それは当然、記憶の維持に、という意味だろうが、本当なのだろうか。
鏡を持っていても忘れてしまうの?
“昨日”より前の記憶を失ったのは、奪われていたわけじゃなかったの?
私の戸惑いに構わず、向坂くんは続ける。
「残念だったな。お前は忘れるけど、俺はぜんぶ覚えてるから」
今は、恐怖よりも混乱が勝っていた。
彼の言葉に違和感が萌芽する。
(でも私、覚えてる)
“昨日”、向坂くんにペティナイフで殺されそうになったこと。
逃げ惑ううち、階段から落ちたこと。
確かに、記憶に残っている。
それでも、向坂くんが私の記憶に気付いていないとしたら────。
きっと、新たな法則があるんだ。
そして、それはまだ彼も知らない。
そんな事実に気が付くと、心臓が緊張気味に重たげな音を立てた。
理人のときと一緒だ。
向坂くんより先に法則を見つけて、自分の記憶を守らなければ。
「いい表情すんじゃん。ま、何言ってるか分かんねぇよな」
私の困惑と緊張を思い違いしてくれたお陰で、隠した尻尾を掴まれずに済んだ。
「要するに、今度は俺がお前を殺すってわけ。でも、お前は毎日生き返るたび忘れんだよ」
「何で……」
もう分かっているのに、まだどこかに逃げ道を探している。
彼が私を殺すことに、何か他に崇高で合理的な理由があるんじゃないか、って信じようとしている。……けれど。
「愉しいから。それ以外ねぇだろ」
私の心を踏みにじるように、向坂くんは淡々と言った。
躊躇も逡巡もない、澄み切った表情。
平然と暗色を滲ませる双眸が私を捉えて離さない。