純愛メランコリー
混乱した。わけが分からなかった。
向坂くんが何をするつもりなのか、そのナイフが何なのか、想像することさえ脳が拒んでいる。
目の前の現実に圧倒される。
「こ、向坂くん……?」
「今度は俺が殺す番だからさ。せいぜい抗えよ」
ゆっくりと距離を詰めてくる彼から、逃れるように後ずさる。
(何で……? 何でなの!?)
殺され続ける日々は終わったのに。
やっと解放されたはずだったのに。
よりにもよって、今度はどうして向坂くんが私を殺すの……?
冷たく沈んだような彼の目に捉えられた瞬間、私は弾かれたように駆け出した。
理人が私を殺していたときと同じだったのだ。
冷ややかなのに滾るような、殺意を滲ませた眼差し。
早く逃げなきゃ────。
あれこれ考えることも絶望することも後回しでいい。
私は屋上のドアへと一直線に向かう。
「……っ」
ぐい、と後ろから髪を引かれた。
バランスを崩した私はその場に倒れ込む。
迫る向坂くんから逃れようと這うように動いたが、すぐに捕まってしまった。
馬乗りになった向坂くんがナイフを振り上げる。
押しのけようとしても、力が全然敵わない。
「嫌……!」
「逃げんなよ」
恐怖のあまり滲んだ視界で、向坂くんの顔が歪む────。
どうして……?
頭の中を駆け巡る疑問符は次の瞬間、ばらばらに散った。
それどころじゃなくなった。
急激に肺が熱くなる。火傷しそうなほど。
しかし、突き立てられたナイフの冷たさだけは強く感じている。
それが一気に引き抜かれると、血が赤い糸を引いた。
痛い……。痛い、痛くてたまらない。
不意にせり上がってきた何かを吐き出す。鮮やかな血だった。
「う……ぅっ」
激痛に悶える私に、彼は容赦なく何度もナイフを振り下ろしては滅多刺しにする────。
「…………」
痛くて、苦しくて、熱くて、寒い。
ちぐはぐな感情が、私の命が尽きようとしていることを如実に訴えかけてくる。
だんだんと苦痛を感じられなくなり、意識が遠のき始めた。
自分の置かれている状況も、自分が生きているのかどうかさえ、分からなくなってくる。
頭の中は白く霞み、視界は影のように黒く染まっていく。
「またな、花宮」
向坂くんの振り上げたナイフが、再び勢いよく迫ってくる。
それを見たのを最後に、私の記憶は途切れた。