純愛メランコリー
私は少し考えてから、口を開いた。
「ねぇ、お手洗い貸して……。少しでいいから、これほどいて」
両手足のガムテープを指し示す。
そういう生理現象が理由なら、ないがしろにも出来ないはず。
けれど、向坂くんは懐疑的な眼差しを向けてきた。
「逃げようってのか?」
「違う……! 信用出来ないなら、ドアの前にいてくれていいから」
とにかく必死で訴えかけた。
ひとまず拘束を抜け出さないと、自ら命を絶つことも出来ない。
「……分かったよ」
渋々ではあったけれど、向坂くんは頷いてくれた。
億劫そうに立ち上がり、先ほどのように私の前に屈む。
左右の足首の間にペティナイフを差し込み、ガムテープを断ち切った。
続いて手首の方も差し出したが、彼は首を横に振る。
こちらはまだ解放してくれないらしい。
「立て」
差し伸べられた彼の手を取り、私は言われた通りにそろそろと立ち上がった。
「手、離すなよ。目瞑ったままついて来い。俺の言葉破ったら殺す」
淡々と脅迫され、頷くほかになかった。
不意に歯向かわれないため、そして間取りを把握されないための措置だろう。
徹底している。
まったく信用されていない。
私は目を閉じ、向坂くんの手を握り締めた。
……こんな状況じゃなければ、きっと幸せを感じられたんだろうな。
フローリングの床を歩き、廊下を曲がった。
視界を遮断されると、それ以外の感覚が研ぎ澄まされる気がする。
秒針の音。
家の中の爽やかなにおい。
触れた手の感触と温もり。
悲しいくらいの現実感に追いつかれる。
「止まれ。もういいぞ」
そう言われ、私は恐る恐る目を開けた。
木製のドアが飛び込んでくる。
向坂くんは先ほどの要領で手首の間にナイフを差し込み、ガムテープを切る。
「あんまり待たせんなよ」
ドアの方を示すように顎で促され、私は中へ入ると素早く鍵を閉めた。
(窓は────)
あるにはあった。
明るい昼の光が射し込んでいるが、身体が通るほどの余裕はない。
そもそも、ここが一軒家なのかマンションのような集合住宅なのかも分からない。
後者なら高層階かもしれないし、それなら身体を通せたとしても生きて逃げることなんて出来ない。
やっぱり、ここから逃げるのは不可能だ。
────“今日”そのものから逃げるしかない。