一途であまい

4.

 週の初めからニヤニヤが止まらない。周囲を取り巻くジェットコースター並みの出来事は、通り過ぎてしまえば一瞬のことに思えた。人生、捨てる神あれば、拾う神ありだ。

 しかも、この彼。めちゃくちゃ可愛くて、料理上手。職業がバーテンダーなんて、見た目からは少しもわからない大学生のような幼い顔をしながら、実はシェイカーを振っていたことも驚きだ。アルコールを飲んでしまったことで記憶をなくし誤解があって、ついお泊りなんていう事態になった朝。慌てふためき驚愕したけれど。ダイニングのテーブルで向かい合い、幸せを噛みしめながら彼が手早く作った朝食に頬は緩みっぱなしだった。フワフワのオムレツに、カリカリのベーコン。オニオンスープにコールスロー。あのパン屋で購入したというクロワッサン。バターの香りが豊潤でサクサクッと美味しい。

 私の週末は、一瞬にしてバラ色となり華やいだ。

 ニタニタとしながら社のエントランスを行くと澤木先輩がやって来た。

「おはよ。どう、平気?」

 金曜の夜。飲めもしないアルコールにグデングデンになっていたせいで労わってくれる。

 先輩の心配そうな表情を裏切るように、私は幸せ満載の顔を向ける。

「あれ。何か、いいことでもあった?」

 あの夜までとは一変した態度に、先輩が興味をひかれている。その顔に向かって、益々ニタニタが止まらない。

「もしかして、あのスイーツ男子とうまくいったとか」

 なんて勘がいいのだろう。まさにまさですよ。

「実は、酔った帰りに彼の家に行くことになりまして」
「えっ。まさか、お泊り⁉」

 先輩の声が大きくなってきたので、潜めるようにこそこそとした態度をする。

「詳しく訊きたいですか?」
「詳しく話したいよね?」

 二人でニヤニヤ。傍を通る他の社員が、訝しみながら通り過ぎていく。

「今夜しっかりと話を聞こうじゃないの」

 恋バナに浮かれる女子高生のように、二つ返事でお待ちしていますと告げた。

 心を弾ませ、ニヤニヤとしながらその日の仕事を終えた。ちょっと面倒な案件はあったけれど、幸せ絶好調の私にかかればお手の物だ。かーるく飛び越え処理してやった。ふっ。

 夜には、先輩がスイーツ片手に部屋を訪ねてきた。

「はい。本日のお土産です」
「こ、これは。西荻窪のモンブラン。季節限定商品ではないですか」

 山のように高く聳えたモンブランは、秋頃から梅雨前までの限定商品で。周りを覆ったモンブランクリームの中には、たんまりと生クリームが入っている。

「宮沢が西荻の方に行くっていうから、頼んでおいたの」
「宮沢様様ですね」

 拝むようにしてからケーキを受け取り、紅茶の準備をしてテーブルに着いた。

「いっただきまーす」

 高く聳え立つモンブランにフォークをいれて口へ運ぶと、うっとりするくらいの美味しさだ。

「んーっ。幸せ~」

 感嘆の声を上げる私を、先輩が面白そうに見ている。

「で、スイーツ男子とはどうなったって?」

 上品に紅茶を口にした先輩も、その後モンブランを頬張りながら幸せそうな顔をする。

 あの夜。彼と一緒に過ごした週末の幸せな二日間について語った。

 永峯君の朝食を頂いたあと、昨夜のアルコールを洗い流そうと、シャワーを借りることにした。バスルームで熱いシャワーを浴びていると、不意にコンコンというノックと共に「僕も一緒に入る」と彼が突如ドアを開けた。押し入られ慌てたけれど、はしゃぐ彼が子供みたいで水遊びのように楽しんだ。

「まー、そうなってくるとあれですよね。「もう一回する?」って言ってたくらいですから。その、ねぇ」

 照れくさそうに話す私を見て、澤木先輩は女子高生のようにジタバタともがくようにして黄色い声を上げる。

「それで、それで」

 前のめりになり続きを促し、恋バナが楽しくて仕方ないというように目を輝かせた。期待に応えるように話を続ける。

 お昼くらいまでベッドの上で過ごしたあとは、二人で外に出かけた。ショートケーキがイマイチだったカフェの先にある。彼が美味しいよ、と教えてくれたケーキ屋さんに行くことにしたのだ。

 テーブル席で、ケーキセットを注文して向かい合うと、恋人になったんだとしみじみ実感した。彼は人の目をしっかりと見て話しをする人で。まだこの状況にあたふたと心がはしゃいでいる私は、恥ずかしくて何度も視線を逸らしてしまう。おしぼりを手にしてみたり、店内をきょろきょろと観察してみたり、水の入ったグラスに何度も口を付けたり。

 彼のおすすめだという、オレンジ風味のマスカルポーネチーズを使った、上にオレンジのスライスが乗るチーズケーキを注文する。彼は、ノアールと呼ばれているガナッシュクリームを使ったチョコレートケーキ。土台のダックワースはサクサクとしていて、食感もいい。

 私がなぜ彼のケーキの味を知っているかと言えば。

「オレンジの風味が効いてて美味しい」

 頬に手をあて美味しさにジタバタとしながら味わっていると、目の前の永峯君はニコニコとしたまま私を見てばかりでケーキに手を付けない。

「食べないの?」
「美月ちゃんを見ているだけで、幸せでお腹いっぱいになっちゃうよ」

 恥ずかしげもなく言うものだから、顔が一気に熱を持つ。

「も、もう。そんなこと言ってたら、そっちのケーキも私が食べちゃうよ」

 照れ隠しにわざと手を出すと「どうぞ」ってお皿を差し出されてしまった。言われるままに一口貰うと、これもめちゃくちゃ美味しくてたまらない。

「ここのケーキ、ホントに美味しいね」
「でしょう」

 得意気な顔をしていた永峯君は、口をあーんと開ける。

 こ、これは。

 動揺して動きを止めると、またあーんと口を開ける。その可愛らしい顔と言ったらない。だらしなく頬が緩んでしまうのを止められない。周囲をチラリと窺い見てから、照れくさくも嬉しい、あーんに応えるべく。ガナッシュケーキを彼の口へと一口運ぶ。彼は、子供みたいにぱくりと食いついた。

「美月ちゃんから貰ったら、めちゃくちゃ美味しい~」

 どちらが女性かわからないくらい、彼はスイーツを美味しそうに頬張る。

 つい最近。あんなにひどいふられ方をしたばかりの私が、こんなに幸せな気持ちになってしまっていいのだろうか。僅かに不安が過ったのだけれど、幸せなものは幸せで。頬の緩みを戻すことができない。

 ケーキに満足した後は店を出て、永峯君が働いているバーのある町へ向かった。驚くことに、それはあのおきつ文房具店の近所。一本通りの違う、ときわ商店街を抜けた先にある。所謂、飲み屋街と称された通りにあった。どおりで、あのパン屋さんや和菓子屋さんで見かけるわけよね。

「僕ね。酒に興味もあったけど。料理も好きでね。あ、もちろんスイーツも」

 スイーツのところで彼は、声を弾ませる。

「高校を卒業した後、大学に通いながら専門学校や通信教育で調理師と栄養士の資格を取って。それと並行してというか、二十歳を過ぎてからだけど。カクテル検定試験を取ったり、夜にはバーでアルバイトをしたり、接客を学んだりしてたんだ。今の店に落ち着いたのは、つい三年前。といっても、実は資格を取る為に大学は休学した後に、結局辞めちゃったんだけどね」

 彼が「情けない」と呟くから、そんなことはないと全力で否定した。やりたいことがある時点で、とても素晴らしいことだし。それに向かって真っすぐ突き進んできた彼は、何に恥じることだってない。

「今働かせてもらっている店は、ジャズ好きのオーナーが経営していて。とてもいい人でね。姪っ子の涼音さんは、勝気だけど明るくて。しかも、めちゃくちゃピアノが上手でね。元々はプロだった人だから、当たり前なんだけど。二人が店のフロアでセッションするのを聴いていると、楽器も弾けないのに仲間に加わりたくなるくらい素敵なんだよ」

 ギターでも習ってみようかな、なんて永峯君は笑う。

「パティシエになろうとは、思わなかったの?」

「それも考えた。けど、スイーツは自分が楽しみたいんだよね。誰かの作ったものを美味しーって言って食べたい。だから、職業にはしなかったんだ。その点。酒や料理は、作ってあげたくなっちゃう。僕の作ったカクテルや料理を飲んで食べて、美味しいって言って貰えると、めちゃくちゃ幸せな気持ちになるんだよ」

 確かに。誰かに何かを作ってあげた時に「美味しい」って言われたら嬉しいよね。私はそれほど料理が得意ではないけれど、自分の勤めている会社の製品を褒められたら嬉しいもの。

「コロナの時期にね、バーの営業ができなくなって。ほら。僕、調理師も栄養士も免許を持っているし。バー自体も裏の方には、調理できるように立派なキッチンがあるから。昼間にランチの提供もするようになって」

 二人をパン屋で見かけたあの日は、ランチの食材を買い出ししていたのだという。

「永峯君の料理、美味しかったからお客さんも満足するでしょ。ちゃちゃっと作ったなんて言ってた朝ごはんだって、あんなに美味しいんだもん」
「嬉しいなぁ。美月ちゃんに褒められると、最高に嬉しい。嬉しいからキスしていい」

 唐突に立ち止まると私を引き寄せた永峯君が、間近で顔を見つめてくる。店内でケーキを食べていた先ほどまでは、可愛らしい表情をして子供みたいにあーんなどと口を開けていたのに。今は艶のある大人の顔で魅了する。このギャップに、心は一瞬でとろけていく。

 いいともダメとも言わずにいると、それを肯定ととったようで彼と私の唇が重なった。触れるだけのキスなのに、学生みたいにドキドキした。自分は、こんなにも純情だっただろうか。年ばかり重ねて、内面が成長していないのかもしれない。

「考えてみたら、ここ外だった」

 辺りを窺ってから、クスッと笑った彼は私の手を握り歩き出す。おどけているけど、わかっていてやっているに違いない。なんて小悪魔な。

「続きは、僕の部屋でね」

 その一言にベッドの上で目覚めた今朝のことが一瞬で蘇り、かーっと顔が熱くなる。私はまんまと彼に翻弄されている。

「ああ、本当に幸せだなあ。美月ちゃんと付き合えることになるなんて、夢みたいだよ」

 手を繋ぎ歩きながら、彼が晴れ渡った空を見上げる。彼の表情はいつまでも眺めていられるくらい眩しくて、それを言うならこっちのほうだと、胸に大きく空気を吸い込んだ。

 永峯君のような素敵な人と出会い、肩を並べて寄り添いあうことができるなんて。こんな幸せなことなどない。反面、不安な気持ちもあった。あまりにうまくいきすぎるこの状況が信じられず。これは本当に現実なのかと疑う自分がいるのだ。

 初めて会った時から好きだった、と彼は言った。けれど、失恋話に泣いたり、ショートケーキに文句を言ったりした自分を好きになるだろうか。

 生真面目な性格故に、不安を煽るような感情が時折顔を出し苦しめる。本当は、嘘でした。そんな風に一瞬で覆されてしまう気がして怯えてしまう。

 さっき吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。不安も一緒になくなれと、体の中から外へ出す。考え過ぎの種が成長しないようにと、彼と同じように空を見上げ眩しい青に目を細めた。
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