一途であまい
ティーソーダに舌鼓を打っていると、前触れもなく入り口のドアが開いた。
「よおっ」
本当に傷心なのかと思わせる明るい挨拶と軽い足取りで、滝口さんがやって来た。
「いい店じゃん。ピアノもあるんだな。生演奏でもすんの?」
相変わらずのフランクな話し方で、カウンターの後ろにあるテーブル席に向かう。
「こっちでもいいか?」
灯りの当たらないテーブル席の椅子を引くと、永峯君がそちら側のライトを点ける。滝口さんに促され私も移動した。
「もう飲んでるのか」
キウイの浮かんだグラスを見て、カウンターにいる永峯君を見たあと滝口さんが注文をする。
「ビール」
まるで普通に営業している店にでもやってきたみたいな態度だ。
「遠慮とかないの?」
渋い顔を向けると、バーに来たんだから飲むだろうと当たり前のように返してくるから寧ろ清々しい。
永峯君はビールのグラスを二つと、ナッツの入った小鉢。増田さんのところで買った揚げ物を温め直したものをテーブルに置いた。
「何か食べますか? 簡単な物なら作りますよ」
「食べたいっ」
永峯君が訊ねた相手は滝口さんなのに、つい反応してしまった。
「隣で目を輝かせている高坂に、美味いものを出してやった方がいいみたいだな」
二人の視線に、苦笑いがこぼれる。
料理の準備をするために永峯君が席を外している間。滝口さんは、用意されたビールを口にする。ライトの光を受けたビールの泡はきめが細かくキラキラと輝き、とても美味しそうに見えてた。
「デート中だったか?」
「わかってて訊いてるでしょ」
わざと不満な顔を向けると、クツクツと声を漏らす。やっぱり、傷心なんていうのは適当に思いついたでまかせかもしれない。暇を持て余していて、一緒に飲む相手が欲しかっただけだろう。私が下戸だから、一緒にいる永峯君を巻き込み。彼がバーテンダーだというのは知っているから、美味い酒でも作らせようなんて魂胆ではないだろうか。
滝口さんのブラックなあれこれを想像していたら、料理を持った永峯君が席に戻ってきた。
簡単なサラダやパスタ、ありあわせで作ったというピンチョスが並ぶ。
「いただきまーす」
傷心というのが嘘か本当かわからないけれど。自棄酒を飲みに来た滝口さんのことなどお構いなしに、私は早速永峯君の料理を堪能する。
茹でたブロッコリーと海老をタルタルソースで和えたもの。刻まれたピクルスと玉ねぎがいい味と食感を出しているサラダ。パスタは茄子と挽肉のトマト味。にんにくの香りと、オリーブオイルが染み込んだ茄子の甘味がたまらない。可愛らしいスティックに刺さったピンチョスは、チーズをサーモンで巻き、薄切りにスライスしたキュウリが重ねられている。
「へぇ。確かに、美味いもんだな」
取り分けたパスタを頬張り、滝口さんが感心したように頷いている。
「でしょー。永峯君の料理は最高なんだから」
子供みたいに自慢をすると、はいはいと軽くかわされた。増田さんのところで購入したコロッケを口にする。昼間の明るいうちに食べた有名店のコロッケも美味しかっけれど。永峯君が話していた通り、確かに増田さんのところのコロッケも、ホクホクとしていて抜群だ。
顔に出ていたのか、永峯君が嬉しそうに、ね。という顔を向けてきたから、うんと頷いた。
滝口さんは私たちのやり取りを黙って眺めながら、ゴクリとビールを喉に流し込む。入って来た時の明るさはなく。軽薄な冷ややかさが窺えた。
「で、自棄酒ってどうしたの?」
傷心と言いながら、特に何か話すでもなく。出されたビールを飲み干し、滝口さんは二杯目を味わっている。
滝口さんが話し出すのを見守るように待っていると、漸く人心地ついたと言うように息を吐く。けれど、少しの間テーブルのつるりとした目地を見つめるようにして、何から話したらいいのかというように黙り込む。二杯目のビールも一気に飲み干すとグラスを掲げた。
「もう一杯貰ってからでもいいか」
空いたグラスを永峯君へ手渡すと、滝口さんは背もたれに寄りかかり深い息を吐いた。そんな姿を見て、私は漸く彼が本当に傷ついているのだと理解できた。彼の性格上、落ち込んでいる姿をうまく晒すことができないのかもしれない。あれこれと軽口をたたくけれど、こういった時はとても不器用なのだ。
「高校の時から付き合っていた女がいてさ……」
永峯君がカウンターに行ってしまうと、滝口さんが訥々と話し出した。
「明るくて、好き嫌いなく何でも美味いって食って。いつも笑ってるやつで。けど、本当のところは真面目で、考えすぎる癖があって。落ち込んでても、大丈夫なんて笑ってるから、誰もあいつが悩んでたり、苦しかったりしても気が付かないんだ」
以前「似ている」と言っていたのは、今話している女性のことなのかもしれない。
滝口さんは無言のまま、私の目を真っすぐ見てくる。真剣で哀しみの滲んだ瞳で見てくる滝口さんから視線を逸らせなくなってしまった。
互いを見たまま、次の言葉もなく時間が止まった。話し始めた彼女のことに、何も知らない私がこの時点で何か言えることなどない。かと言って、続きを促すような雰囲気でもなく。ジリジリと焦りにも似たような時間が過ぎていく。その間彼の瞳は一切逸らされることはなく、私は張り付けられたように動くことができなかった。まるで射すくめられてしまったようだ。
長い時間が過ぎていく。たかたが一杯のビールが届くまでの間のはずが、永遠にさえ思えた。じっと見据えてくる滝口さんの目は、何か言いたそうに私を見続ける。けれど、薄いその唇からは、なんの言葉も出てこない。
何を考えているのだろう。なにを思っているのだろう。似ている。そう言った彼女と私を重ねているのだろうか。ジワジワと責め立てられるような視線に、私が耐えられなくなる。私のことを言っているわけではないのに、どういうわけか苦しくなっていく。
見続けてくる滝口さんの視線に、とうとう堪えきれず。気がつかないうちに止めていた呼吸をするため、身じろぎをしたところで永峯君が戻ってきた。
「お待たせ」
彼の言葉と同時に、息を吐き出し吸い込んだ。恐る恐る滝口さんへ視線を向けると、さっきまでの真剣で鋭い眼差しはなくなっていた。
コースターの上に新しいグラスが置かれると滝口さんは、ありがとうというように少しだけ右手を挙げると再び話を始めた。
「俺は昔っからこんな感じで。高坂に言わせればチャラチャラしてるように見えるんだろうけど。これでも、好きな女には一途だったんだよ。あいつと正反対の性格は、お互いのない部分を補っていて、俺はずっとうまくやっているって思ってた」
冒頭を聞いていなかった永峯君だけれど、話の腰を折らず黙って聞いている。
「あいつが無理してるところや、口にできない悩みも全部。俺だけは解ってると思ってたんだ」
深く息を吐くと、さっき永峯君が持ってきた三杯目のビールをチビリと口にした。
「けど。何でもわかっているなんて、傲慢だったんだよな」
滝口さんは、嘲笑するような笑いを浮かべて視線をビールに向けた。
「お互いに大学を卒業して、それぞれ会社に就職してしばらく経った頃に、突然、いったん離れようって言われてさ」
青天の霹靂だったよ。
さっきよりも更に自分を嘲るような笑いを浮かべる。彼女からの申し出に納得はできなかった。けれど、彼女の意思があまりに固いことに、とうとう折れたという。離れるだけで、別れるわけではないと自分に言い聞かせて一年二年と過ごし。その間も、時折連絡だけは取り合っていたのだそうだ。
「本当は、離れたいって言っていた時から決めてたんだろうな。俺とはもう無理だって。別れたいって。さっきも言ったけど、俺って好きな女には一途だからさ。忠犬力半端なく、ひたすら待ち続けてたわけ。考え直して欲しいって、何度も話したし会いにも行った。けど、何度話したって、会いに行ったって。答えは初めから決まってたんだよ。俺が何を言ってもあいつの決心は硬くて。ズルズルと時間だけが過ぎて。そうこうしているうちに、更にショックな出来事が追い打ちをかけてきてさ。昨日の夜。あいつから電話があって、結婚することになったって」
崖下へ真っ逆さまに突き落とされた気がしたよ。そう呟いた後、滝口さんは少しだけ洟をすする。
「あいつは、俺と離れた時点で別れたつもりだったし。他に好きな奴が居たんだろうな。なのにしつこく連絡入れて、俺が一番お前のことを理解しているなんて押しつけがましい態度を続けて、ホント間抜けな話だよ」
辛気臭いことが似合わない彼に、ふざけた冗談を言うこともできない雰囲気が漂いしんみりとする。
「高坂は、周りに女をはべらせているしょうもない男と思っていただろうけど。深い仲になった女なんて、実のところ一人もいないんだ。ただ、誘われるまま飯を食いに行ってただけでさ」
滝口さんは、暗くなってしまった空気を変えるように明るく言い、喉を鳴らしながらビールを飲む。彼女と離れてしまってからの滝口さんは、その寂しさを埋めるように誰かの温もりを求めていたのだろう。
「そんなわけで、俺は元カノの結婚という現実を突きつけられて、めちゃくちゃ傷心なんだ」
自慢するように言い切ると、増田さんの処のコロッケを摘まんで口に放り込んだ。うまい。なんて声を上げて笑顔を浮かべているけれど、無理しているのがよく分かる。散々待ち続けた挙句、他の人との結婚を知らされてしまったことには、自分と重なる部分が大いにあり過ぎて共感する。
いつものようにしようとあげる声や、おどけた顔つき。普段言わないような冗談や、私をからかう言葉。そのどれもが空回りをしている。空気を換えることが難しいほどに、滝口さんが落ち込んでいるのが伝わってくる。そうした後には、もう何も話すことなどできないというように、黙りこくってしまい。空気は重く、呼吸さえし辛いような気がしてきた。
「もう一杯飲みますか?」
黙ってしまうと、永峯君が声をかけた。
「サンキュ」
空のグラスを持った永峯君は、席を立ちカウンターへ行く。
永峯君が掛けた一言で、滝口さんも言葉を出す切っ掛けを掴めたのか、私を見て苦笑いを浮かべる。
「マジ話過ぎて、引くよな」
「そんなことないよ……。こんなの辛いに決まってる」
自分の状況と少し違うにしろ、相手が突然他の異性と結婚などと言われたら、傷つかないはずがない。
「高坂ならわかってくれると思った」
だから私だったのだろう。同じような辛い経験をしている私だから、お酒が飲めないとわかっていてもこうして誘ってきたのだろう。
静かな声音で、悲しげに呟く滝口さんは、僅かな間を置くと近くにあったピンチョスを一つ摘まみ、自分の口に持っていかず私の口元へと差し出した。
「食え」
落ちこんでいる自分を誤魔化すように、ホラッというようにニヒルな表情をする。そんな滝口さんの気持ちを汲み取る。
「餌やりみたいな言い方しないで」
冗談を返してクスクス声を上げると、滝口さんがようやく少しだけ笑ってくれた。
この人には、暗い顔など似合わない。いつでも自信満々で、誰とでもフランクに会話して、俺様みたいな強気な態度が似合うのだ。
「大丈夫。私でも、永峯君みたいな人が現れるんだから。滝口さんならもっと素敵な人に巡り逢えるよ」
「奇特な弟君だよ」
それはどういう意味だと突っ込んでいると、永峯君がビールのグラスを二つと。私には、ピンク色をした飲み物を持ってきてくれた。
「イチゴのシャンパーニュだよ。ノンアルだから、気にせず飲んで」
グラスの底に沈んでいる真っ赤なイチゴが、たくさんの気泡を纏い、照明の灯りを受けてキラキラとしている。口をつけると飲みやすく甘味があり、まるでジュースみたいだ。
「高坂の飲み食いしてる姿って、部活動してる学生か小学生のガキみたいだよな」
人のことをけなしながら笑う滝口さんに膨れっ面を向けると、永峯君はそこも可愛いと私を見てにっこりと微笑むから嫌味はスルーだ。
他人の甘い雰囲気はみていられないとばかりに、滝口さんはわざとらしくケッと吐き捨てる。話すだけ話してスッキリしたのか、もっと飲ませろと。さっきまでのペースとは段違いの速さで、どんどんアルコールを摂取していった。
ビールのあとには、ハイボールを数杯。そのあとには、ウイスキーをロックで。さっきお腹に入れたのは、パスタを少しと、最終的に自分の口へと運んだ私へ差し出したピンチョスと。増田さんのところのコロッケを半分だけだ。男の人にしてみれば、お酒の席では食べている方なのかもしれないけれど。これだけ早いペースで飲まれると、心配になってくる。
「ちょっと、大丈夫? 飲み過ぎじゃない」
永峯君は、自棄酒だからね。こんな風に飲みたい時もあるんだよと切なげに滝口さんを見ていた。それでも仕事柄か、そろそろ止めた方がいいというタイミングは解るようで。しばらくすると、タクシー呼ぶねとスマホを取り出し連絡をする。
平気だと言うわりに、滝口さんの足元は覚束ない。酔っ払いに一人で階段を上らせるのは危険なので、永峯君が肩を貸して表まで連れて行く。私は滝口さんの鞄を持って、その後ろをついていった。
やって来たタクシーのドアが開き、永峯君は滝口さんの体を支えるようにして後部座席に乗せた。そのあとに、私が車内に少し身を乗り出すようにして持っていた鞄を滝口さんへと渡す。すると鞄を渡す私の手をそっと掴み、酔っているとは思えないようなしっかりした瞳で見据えてきた。顔と顔が近づいた瞬間。
「高坂が俺のそばにいてくれよ」
人通りの少ない静かな場所だけれど、滝口さんの声は二人にしか聞こえないくらいの囁き声だった。なのに、言葉には力強さがあって、心へずっしりとした重みを伝えてくる。
驚きとともに、何も応えられないまま掴まれた手から逃れる。やたらと反応する心音が、耳元で煩い。悲しげな顔を向けられ、振り切るように視線を逸らす。
何も気づいていないだろう永峯君のことを背中で意識しながら、ドアが閉まり行ってしまうタクシーのテールランプを見送った。
名残惜しそうに放した滝口さんの手の感触が強く残っていた。
「よおっ」
本当に傷心なのかと思わせる明るい挨拶と軽い足取りで、滝口さんがやって来た。
「いい店じゃん。ピアノもあるんだな。生演奏でもすんの?」
相変わらずのフランクな話し方で、カウンターの後ろにあるテーブル席に向かう。
「こっちでもいいか?」
灯りの当たらないテーブル席の椅子を引くと、永峯君がそちら側のライトを点ける。滝口さんに促され私も移動した。
「もう飲んでるのか」
キウイの浮かんだグラスを見て、カウンターにいる永峯君を見たあと滝口さんが注文をする。
「ビール」
まるで普通に営業している店にでもやってきたみたいな態度だ。
「遠慮とかないの?」
渋い顔を向けると、バーに来たんだから飲むだろうと当たり前のように返してくるから寧ろ清々しい。
永峯君はビールのグラスを二つと、ナッツの入った小鉢。増田さんのところで買った揚げ物を温め直したものをテーブルに置いた。
「何か食べますか? 簡単な物なら作りますよ」
「食べたいっ」
永峯君が訊ねた相手は滝口さんなのに、つい反応してしまった。
「隣で目を輝かせている高坂に、美味いものを出してやった方がいいみたいだな」
二人の視線に、苦笑いがこぼれる。
料理の準備をするために永峯君が席を外している間。滝口さんは、用意されたビールを口にする。ライトの光を受けたビールの泡はきめが細かくキラキラと輝き、とても美味しそうに見えてた。
「デート中だったか?」
「わかってて訊いてるでしょ」
わざと不満な顔を向けると、クツクツと声を漏らす。やっぱり、傷心なんていうのは適当に思いついたでまかせかもしれない。暇を持て余していて、一緒に飲む相手が欲しかっただけだろう。私が下戸だから、一緒にいる永峯君を巻き込み。彼がバーテンダーだというのは知っているから、美味い酒でも作らせようなんて魂胆ではないだろうか。
滝口さんのブラックなあれこれを想像していたら、料理を持った永峯君が席に戻ってきた。
簡単なサラダやパスタ、ありあわせで作ったというピンチョスが並ぶ。
「いただきまーす」
傷心というのが嘘か本当かわからないけれど。自棄酒を飲みに来た滝口さんのことなどお構いなしに、私は早速永峯君の料理を堪能する。
茹でたブロッコリーと海老をタルタルソースで和えたもの。刻まれたピクルスと玉ねぎがいい味と食感を出しているサラダ。パスタは茄子と挽肉のトマト味。にんにくの香りと、オリーブオイルが染み込んだ茄子の甘味がたまらない。可愛らしいスティックに刺さったピンチョスは、チーズをサーモンで巻き、薄切りにスライスしたキュウリが重ねられている。
「へぇ。確かに、美味いもんだな」
取り分けたパスタを頬張り、滝口さんが感心したように頷いている。
「でしょー。永峯君の料理は最高なんだから」
子供みたいに自慢をすると、はいはいと軽くかわされた。増田さんのところで購入したコロッケを口にする。昼間の明るいうちに食べた有名店のコロッケも美味しかっけれど。永峯君が話していた通り、確かに増田さんのところのコロッケも、ホクホクとしていて抜群だ。
顔に出ていたのか、永峯君が嬉しそうに、ね。という顔を向けてきたから、うんと頷いた。
滝口さんは私たちのやり取りを黙って眺めながら、ゴクリとビールを喉に流し込む。入って来た時の明るさはなく。軽薄な冷ややかさが窺えた。
「で、自棄酒ってどうしたの?」
傷心と言いながら、特に何か話すでもなく。出されたビールを飲み干し、滝口さんは二杯目を味わっている。
滝口さんが話し出すのを見守るように待っていると、漸く人心地ついたと言うように息を吐く。けれど、少しの間テーブルのつるりとした目地を見つめるようにして、何から話したらいいのかというように黙り込む。二杯目のビールも一気に飲み干すとグラスを掲げた。
「もう一杯貰ってからでもいいか」
空いたグラスを永峯君へ手渡すと、滝口さんは背もたれに寄りかかり深い息を吐いた。そんな姿を見て、私は漸く彼が本当に傷ついているのだと理解できた。彼の性格上、落ち込んでいる姿をうまく晒すことができないのかもしれない。あれこれと軽口をたたくけれど、こういった時はとても不器用なのだ。
「高校の時から付き合っていた女がいてさ……」
永峯君がカウンターに行ってしまうと、滝口さんが訥々と話し出した。
「明るくて、好き嫌いなく何でも美味いって食って。いつも笑ってるやつで。けど、本当のところは真面目で、考えすぎる癖があって。落ち込んでても、大丈夫なんて笑ってるから、誰もあいつが悩んでたり、苦しかったりしても気が付かないんだ」
以前「似ている」と言っていたのは、今話している女性のことなのかもしれない。
滝口さんは無言のまま、私の目を真っすぐ見てくる。真剣で哀しみの滲んだ瞳で見てくる滝口さんから視線を逸らせなくなってしまった。
互いを見たまま、次の言葉もなく時間が止まった。話し始めた彼女のことに、何も知らない私がこの時点で何か言えることなどない。かと言って、続きを促すような雰囲気でもなく。ジリジリと焦りにも似たような時間が過ぎていく。その間彼の瞳は一切逸らされることはなく、私は張り付けられたように動くことができなかった。まるで射すくめられてしまったようだ。
長い時間が過ぎていく。たかたが一杯のビールが届くまでの間のはずが、永遠にさえ思えた。じっと見据えてくる滝口さんの目は、何か言いたそうに私を見続ける。けれど、薄いその唇からは、なんの言葉も出てこない。
何を考えているのだろう。なにを思っているのだろう。似ている。そう言った彼女と私を重ねているのだろうか。ジワジワと責め立てられるような視線に、私が耐えられなくなる。私のことを言っているわけではないのに、どういうわけか苦しくなっていく。
見続けてくる滝口さんの視線に、とうとう堪えきれず。気がつかないうちに止めていた呼吸をするため、身じろぎをしたところで永峯君が戻ってきた。
「お待たせ」
彼の言葉と同時に、息を吐き出し吸い込んだ。恐る恐る滝口さんへ視線を向けると、さっきまでの真剣で鋭い眼差しはなくなっていた。
コースターの上に新しいグラスが置かれると滝口さんは、ありがとうというように少しだけ右手を挙げると再び話を始めた。
「俺は昔っからこんな感じで。高坂に言わせればチャラチャラしてるように見えるんだろうけど。これでも、好きな女には一途だったんだよ。あいつと正反対の性格は、お互いのない部分を補っていて、俺はずっとうまくやっているって思ってた」
冒頭を聞いていなかった永峯君だけれど、話の腰を折らず黙って聞いている。
「あいつが無理してるところや、口にできない悩みも全部。俺だけは解ってると思ってたんだ」
深く息を吐くと、さっき永峯君が持ってきた三杯目のビールをチビリと口にした。
「けど。何でもわかっているなんて、傲慢だったんだよな」
滝口さんは、嘲笑するような笑いを浮かべて視線をビールに向けた。
「お互いに大学を卒業して、それぞれ会社に就職してしばらく経った頃に、突然、いったん離れようって言われてさ」
青天の霹靂だったよ。
さっきよりも更に自分を嘲るような笑いを浮かべる。彼女からの申し出に納得はできなかった。けれど、彼女の意思があまりに固いことに、とうとう折れたという。離れるだけで、別れるわけではないと自分に言い聞かせて一年二年と過ごし。その間も、時折連絡だけは取り合っていたのだそうだ。
「本当は、離れたいって言っていた時から決めてたんだろうな。俺とはもう無理だって。別れたいって。さっきも言ったけど、俺って好きな女には一途だからさ。忠犬力半端なく、ひたすら待ち続けてたわけ。考え直して欲しいって、何度も話したし会いにも行った。けど、何度話したって、会いに行ったって。答えは初めから決まってたんだよ。俺が何を言ってもあいつの決心は硬くて。ズルズルと時間だけが過ぎて。そうこうしているうちに、更にショックな出来事が追い打ちをかけてきてさ。昨日の夜。あいつから電話があって、結婚することになったって」
崖下へ真っ逆さまに突き落とされた気がしたよ。そう呟いた後、滝口さんは少しだけ洟をすする。
「あいつは、俺と離れた時点で別れたつもりだったし。他に好きな奴が居たんだろうな。なのにしつこく連絡入れて、俺が一番お前のことを理解しているなんて押しつけがましい態度を続けて、ホント間抜けな話だよ」
辛気臭いことが似合わない彼に、ふざけた冗談を言うこともできない雰囲気が漂いしんみりとする。
「高坂は、周りに女をはべらせているしょうもない男と思っていただろうけど。深い仲になった女なんて、実のところ一人もいないんだ。ただ、誘われるまま飯を食いに行ってただけでさ」
滝口さんは、暗くなってしまった空気を変えるように明るく言い、喉を鳴らしながらビールを飲む。彼女と離れてしまってからの滝口さんは、その寂しさを埋めるように誰かの温もりを求めていたのだろう。
「そんなわけで、俺は元カノの結婚という現実を突きつけられて、めちゃくちゃ傷心なんだ」
自慢するように言い切ると、増田さんの処のコロッケを摘まんで口に放り込んだ。うまい。なんて声を上げて笑顔を浮かべているけれど、無理しているのがよく分かる。散々待ち続けた挙句、他の人との結婚を知らされてしまったことには、自分と重なる部分が大いにあり過ぎて共感する。
いつものようにしようとあげる声や、おどけた顔つき。普段言わないような冗談や、私をからかう言葉。そのどれもが空回りをしている。空気を換えることが難しいほどに、滝口さんが落ち込んでいるのが伝わってくる。そうした後には、もう何も話すことなどできないというように、黙りこくってしまい。空気は重く、呼吸さえし辛いような気がしてきた。
「もう一杯飲みますか?」
黙ってしまうと、永峯君が声をかけた。
「サンキュ」
空のグラスを持った永峯君は、席を立ちカウンターへ行く。
永峯君が掛けた一言で、滝口さんも言葉を出す切っ掛けを掴めたのか、私を見て苦笑いを浮かべる。
「マジ話過ぎて、引くよな」
「そんなことないよ……。こんなの辛いに決まってる」
自分の状況と少し違うにしろ、相手が突然他の異性と結婚などと言われたら、傷つかないはずがない。
「高坂ならわかってくれると思った」
だから私だったのだろう。同じような辛い経験をしている私だから、お酒が飲めないとわかっていてもこうして誘ってきたのだろう。
静かな声音で、悲しげに呟く滝口さんは、僅かな間を置くと近くにあったピンチョスを一つ摘まみ、自分の口に持っていかず私の口元へと差し出した。
「食え」
落ちこんでいる自分を誤魔化すように、ホラッというようにニヒルな表情をする。そんな滝口さんの気持ちを汲み取る。
「餌やりみたいな言い方しないで」
冗談を返してクスクス声を上げると、滝口さんがようやく少しだけ笑ってくれた。
この人には、暗い顔など似合わない。いつでも自信満々で、誰とでもフランクに会話して、俺様みたいな強気な態度が似合うのだ。
「大丈夫。私でも、永峯君みたいな人が現れるんだから。滝口さんならもっと素敵な人に巡り逢えるよ」
「奇特な弟君だよ」
それはどういう意味だと突っ込んでいると、永峯君がビールのグラスを二つと。私には、ピンク色をした飲み物を持ってきてくれた。
「イチゴのシャンパーニュだよ。ノンアルだから、気にせず飲んで」
グラスの底に沈んでいる真っ赤なイチゴが、たくさんの気泡を纏い、照明の灯りを受けてキラキラとしている。口をつけると飲みやすく甘味があり、まるでジュースみたいだ。
「高坂の飲み食いしてる姿って、部活動してる学生か小学生のガキみたいだよな」
人のことをけなしながら笑う滝口さんに膨れっ面を向けると、永峯君はそこも可愛いと私を見てにっこりと微笑むから嫌味はスルーだ。
他人の甘い雰囲気はみていられないとばかりに、滝口さんはわざとらしくケッと吐き捨てる。話すだけ話してスッキリしたのか、もっと飲ませろと。さっきまでのペースとは段違いの速さで、どんどんアルコールを摂取していった。
ビールのあとには、ハイボールを数杯。そのあとには、ウイスキーをロックで。さっきお腹に入れたのは、パスタを少しと、最終的に自分の口へと運んだ私へ差し出したピンチョスと。増田さんのところのコロッケを半分だけだ。男の人にしてみれば、お酒の席では食べている方なのかもしれないけれど。これだけ早いペースで飲まれると、心配になってくる。
「ちょっと、大丈夫? 飲み過ぎじゃない」
永峯君は、自棄酒だからね。こんな風に飲みたい時もあるんだよと切なげに滝口さんを見ていた。それでも仕事柄か、そろそろ止めた方がいいというタイミングは解るようで。しばらくすると、タクシー呼ぶねとスマホを取り出し連絡をする。
平気だと言うわりに、滝口さんの足元は覚束ない。酔っ払いに一人で階段を上らせるのは危険なので、永峯君が肩を貸して表まで連れて行く。私は滝口さんの鞄を持って、その後ろをついていった。
やって来たタクシーのドアが開き、永峯君は滝口さんの体を支えるようにして後部座席に乗せた。そのあとに、私が車内に少し身を乗り出すようにして持っていた鞄を滝口さんへと渡す。すると鞄を渡す私の手をそっと掴み、酔っているとは思えないようなしっかりした瞳で見据えてきた。顔と顔が近づいた瞬間。
「高坂が俺のそばにいてくれよ」
人通りの少ない静かな場所だけれど、滝口さんの声は二人にしか聞こえないくらいの囁き声だった。なのに、言葉には力強さがあって、心へずっしりとした重みを伝えてくる。
驚きとともに、何も応えられないまま掴まれた手から逃れる。やたらと反応する心音が、耳元で煩い。悲しげな顔を向けられ、振り切るように視線を逸らす。
何も気づいていないだろう永峯君のことを背中で意識しながら、ドアが閉まり行ってしまうタクシーのテールランプを見送った。
名残惜しそうに放した滝口さんの手の感触が強く残っていた。