一途であまい
 喫茶店をあとにして、駅の改札を潜る。電車に乗って永峯君のマンションがある最寄り駅で降りてから、ときわ商店街に寄り道をした。明日の朝一緒に食べるパンを買いに、幸代さんのところへ寄ろうと思ったのだ。道の端に寄って立ち止まり、永峯君にパンを買ってから部屋に行くことをメッセージで告げる。そうして再び歩き出した時だった。

「美月っ」

 突然背後から名前を呼ばれるのと同時に手首をつかまれた。あまりのことに驚き振り返ると、息を切らせた正が必死の形相で私を捉まえていた。

「た、正っ」

 喫茶店でサヨナラして、もう二度と会うことはなないと思っていた。なのに、あのあと私を追いかけて来ていようとは。油断していた。

 つかまれた衝撃に、手にしていたスマホを道路に落としてしまった。けれど、それを拾う余裕などなく、驚きに目を丸くする。

「お願いだ。もう一度俺とやり直してくれっ。俺には、美月しかいないんだよっ」

 突然何を言い出すのか。さっきまでの弱々しく情けない、縋るような目はどこにも見て取れず。強迫観念にでも囚われたような、焦りの滲む必死な形相をしている。しかも、声が大きいっ。

「なっ。何言ってんのよ。彼女がいるでしょっ」

 握られた手首を振りほどきたいのに、強い力にどうにもならない。まるで、この手を放したら、崖下にでも転落して死んでしまうというほどの強い力だ。

「あいつとは別れたんだ」
「はっ? どうしてよっ」

 お腹に子供がいたのに、捨てたの? それとも、また優柔不断で人任せな態度をとって見捨てられでもした?

 頭の中で別れた理由を思い描いたが、この状況では言葉になって出てこない。

「俺の子じゃなかったんだ。俺、騙されてたんだよ」

 正は、情けなく。今にも泣き出しそうな顔で訴えかけてくる。なんでこんな目に合わなければならないのかと、理不尽だとさえ言っている。

 可哀そうな被害者然としてるけれど、騙されたってことは、そういう行為はしていたってことでしょ。自分が一番いやな思いをしたみたいな顔してるけど。それ、私の方だからね。

 言い返したい衝動に駆られても、キリキリと締め上げるように強くなる力に言葉が詰まる。そうして、ようやく口から出た言葉は。

「そ、それはお気の毒さま……」

 って、何を言ってるのっ。情けをかけてどうする。

 弱々しく返した私の態度に調子に乗ったのか、正は早口に吐き捨てる。

「結婚まで考えて、親にも紹介して。式場だって予約したのにっ」

 ついでに、付き合っていた私のこともふったという文言も増やしておいて欲しい。

 血が止まりそうなほどに握られた手首の痛みから解放されたいのにどうにもならず、顔を歪めながら正の訴えを聞かされる。

 彼女のことを悪く言う正は、自分が今どれだけ大変な目に合っているかを必死に語った。

 俺がいるのに他の男ともできていたとか。口ではうまいことを言って、結婚まで持ち込んだとか。結婚するには一番いい条件の家柄だったのにとか。俺の親までだまして、平気な顔をしていたとか。

 憎々しげな顔をして数々の文句をぶちまけているけれど、それすべて私が言いたい台詞。

「俺にはもう、美月しかいないんだよ。なぁ、頼むよ。もう一度俺とやり直してくれよ。ほら、あれだ。うちの両親も、きっと美月のこと気にいると思うんだ。式場の予約もできてるから、面倒なこともないし」

 ちょっと待ってよ。なによ、それ。他の女性と決めた結婚式場と日取りで、私とやり直そうってこと。デリカシーの欠片もないじゃん。そもそも、この状況がすでに面倒なことになってるじゃないのよ。

 ソファベッドにしろ、拾ってきた子猫にしろ。どうしてこんな人と付き合っていたのだろう。恋は盲目とはよく言ったものだ。妊娠したから別れてくれなどというような、どうしようもない男で。その子が自分の子じゃないとわかったら、今度はやり直そうと言ってくる。正との結婚を夢見ていたけれど、しなくて本当に正解だった。ここまで情けない男だとは知らなかったよ。

 呆れ果てるのを通り越し、あの時引っ掛けられなかったコーヒー分の怒りが加わるように、脳内がスーッと冷えていく。お腹の中はその逆で、沸々と煮えたぎるような怒りに熱くなっていった。

 冗談じゃない。どれだけ私のことを都合よく考えているのだ。いくら笑ってばかりでお気楽そうに見えていたとしても、私だって怒る時は怒るのだ。別れを切り出されても尚、コーヒーひとつ引っ掛けられなかったけれど。いい加減、堪忍袋の緒が切れた。

 どれだけ馬鹿にしたら気が済むのか。私になら何をしてもいいと思っているの。

 ピキピキと青筋が立っていく。怒りに体が震えだす。これが冗談だったとしても、少しも笑えない。呼吸が荒くなり、拳に力が入る。

 未だに強い力で握られている手首を、力の限りに振りほどく。そして、怒りに任せて、平手打ちを決めようとおもいっきり右手を振り上げた。その瞬間だった――――。

「みーつきちゃん」

 上がり始めた私の右手が宙で止まる。体が彼の胸元に抱き寄せられた。

「なが……みねくん……」

 突然の出現に、血の気が引いた。力を込めていた手から、一気に空気が抜け落ちていく。立っていた青筋の代わりに、全ての血液が流れ出してしまったように蒼白になる。今自分が何をしようとしていたか。どれほどに醜い顔で正を睨みつけていたか。

 どんな事情があるにせよ、私は手を上げ暴力を振るおうとしていたのだ。その瞬間を永峯君に見られてしまった……。

 我に返った思考に熱が引いていく。心臓がドクドクとしていた。いくらぶち切れるほどの嫌な目に合っていたとしても、手を上げようとした自分の態度は羞恥に値する。何より、その瞬間を永峯君にみられ、止められた事実が情けなく、得も言われぬ心細さを連れて胸の中をかき乱す。子供みたいに嫌なことから逃げて、隠れて。暗く狭い場所に閉じこもり、泣きだしたい気持ちだ。

 この瞬間に抱いたのは、永峯君に嫌われてしまったかもしれないという恐怖心だった。こんな姿を見られて、嫌気がさしてしまったんじゃないかという怯えだった。

 嫌だ。嫌われたくない。嫌だよ……。

 嵐みたいに乱れた感情で、何をどうすればいいのか解らず目に涙が溢れ出す。私の涙を知ってか知らずか。永峯君はいつもの調子だ。

「こんばんは。えーっと、元彼さん?」

 今までの緊迫した空気を一瞬で和らげるように、彼は穏やかに訊ねて微笑んだ。現れた永峯君の存在がなんなのかすら理解していない正は、呆気にとられたような呆然とした表情をしている。私は永峯君の腕の中で、ただひたすらに怯え、一つ二つとこぼれる涙をどうすることもできず二人の行く末を見ていた。

「色々と行き違いかいがあったみたいだね」

 永峯君の言葉に、正がハッと我に返ったような態度で言葉を返してきた。

「そうなんですよっ」

 見ず知らずとはいえ,共感してくれる相手が現れたと思ったらしく、急に表情を引き締めて永峯君の腕の中にいる私を見た。

「今彼が言ったみたいに、俺たち行き違いがあったんだよ。だからさ、美月。もっ回やり直して――――」

 正の手が私へと伸び、再び自分の方に引き寄せようとする。けれど、永峯君がそれを遮った。その行動に、正がむっとした顔をする。

「アンタ、なんなんだよ。関係ないんだから引っ込んでてくれよ」

 正にアンタと強い口調で言われても、永峯君の表情は相変わらず穏やかで朗らかとさえいえた。

「うーん。関係ないのは、元彼さんの方なんですよね」
「はぁっ⁉」

 何を言っているんだ、関係ないのはお前の方だというようにぐっと前に一歩踏み出すと、正は威圧的な態度をとった。

「残念ですが。美月ちゃんとあなたは、もう恋人同士ではないですし。何より、いま美月ちゃんは、僕の大切な彼女なんですよ。なので、お引き取り願えますか?」

 あくまでも冷静な態度を貫く永峯君に、正は驚いた顔をして私のことを見た。

「はっ⁉ 嘘だろ? だって、俺と別れたばっかで、新しい男なんて。尻軽もいいとこじゃん」

 少しバカにするような嘲る表情で私を見下した正に、永峯君がゆっくりと息を吸う音が聞こえてきた。彼の瞳が、今までと明らかに変わった。それまで穏やかで、微笑みさえ浮かべていた瞳が、今は鋭く怒りに満ちている。

「今の、撤回してもらえますか」

 口にした声は、とても冷静だった。けれど、そこに先程までの柔らかさは微塵もない。鋭く尖った口調だ。

「は?」

 永峯君の様子が変わったことに気づいているのかいないのか。正は尚も強気な態度を示す。

「ですから。今の言葉。撤回してください」

 永峯君の顔は怒りに目を鋭く光らせている。

 普段怒らない人や笑顔の絶えない人が怒りをあらわにすると、とても怖いというのはよくあること。多分に洩れず、彼もその一人だった。

「謝れ」

 静かな声音だった。けれど、普段聞いたことのない低い声は重く、圧が強い。

 私を背中に回すようにして庇いながら、永峯君は正に詰め寄った。言葉と態度が急変したことに漸く気がついた正は、震えあがったようにビクリとする。けれど、見た目可愛らしい顔立ちの永峯君を、彼はまだわずかに見下していたのだろう。

「何をだよっ」

 こんな奴に負けるはずがないというような正に、永峯君は言葉を強く撥ね返す。

「美月ちゃんを侮辱するなっ。謝れっ」

 商店街に響き渡るほどの大きな声だった。いつも賑やかな商店街には、今もたくさんの人が行き交っている。そんな人々のざわめきが一瞬止み、注目を集めるほどの怒声だった。

 私は背中に護られながら、彼の体が怒りに震えていることに気がついていた。

 いつもニコニコとしている彼がこんなにも憤りをあらわにしている。体を震わせ込み上げる感情と戦っている。汚い言葉など、人を威圧する言葉など。絶対に言わないような人なのに。彼になんて嫌な思いをさせているのだろう。彼をここまで怒らせるような事態に巻き込んでしまうなんて。こんなに怖い顔をさせてしまうなんて。私は一体なにをやっているんだ……。

「永峯君、もう……いいから」

 うしろからそっと声をかけると、彼が正を睨みつけたままかぶりを振った。

「よくないよっ。全然よくないっ。美月ちゃんが赦しても、僕は絶対に赦したくないっ」

 永峯君の拳は強く握られていて、振り上げた私の手を止めたというのに、彼の方が今にも殴り掛かりそうな勢いだ。

 気がつくと周囲に気配が集まっていた。見ると、腕を組んだ和菓子屋の源太さんが正の横に仁王立ちし。精肉屋の増田さんが白いエプロンのポケットに手をつっこんで斜に構えて立ち。おでん屋の喜代さんが菜箸を手にやはり腕を組んで立っていた。

 集まって来た商店街の面々に、私も正も驚きを隠せない。冷静というか、動じなかったのは永峯君だけだ。

「うちの商店街で、何を騒いでるんだいアンタ」

 厳つい顔の源太さんが、正の顔をのぞき込むようにして鋭い口調で問い質す。ガタイも大きい源太さんが、ほんの少し上半身を曲げて立ちふさがる姿は、やのつく怖い人たちが出てくる映画にも劣らないほどの恐怖心を抱かせる。

「人の尊厳を踏みにじるようなことは、言っちゃあいけねぇなっ」

 増田さんがふんッと鼻息を飛ばし正のことを直視する。

「女の子に向かって、乱暴なことを言うなんて。あんた、男として恥ずかしくないのかいっ」

 右手で菜箸をグッと握りしめた喜代さんが、左手でエプロンの裾をパシッと払い威嚇する。

「な、なんなんだよアンタら。恫喝してんのかっ。警察呼ぶぞっ」

 負け惜しみのように、正が言い返すが。その声は、あきらかに怯え震えていた。元々正は、喧嘩に慣れているわけでも強いわけでもない。なのに、突然たくさんの人に囲まれて詰め寄られてしまえば、狼狽えるのも無理はない。

 正は半歩後退り。源太さんたちから間合いをとるよう窺いながら、更にもう一歩下がる。まるで、怯えた小動物のようだ。

「美月ちゃんに謝れ」

 今にも逃げ出しそうな正との間合いをグイッと詰めた永峯君は、鋭い視線を向け続ける。低く地を這うような声が最後だった。

「謝れっ」

 震えあがった正が「ごっ、ごめんなさいっ」と泣きそうな声を出し再び後退る。傍に立つ源太さんが一番怖いようで、いつ殴り掛かられるかわからないというようにびくびくと距離を置く。そうやって、一歩二歩。三歩四歩と離れていったあと。今だ! というような間合いを得た瞬間、脱兎のごとく駆けだした。地面に蹴躓き転びそうになりながら、追いかけてきていないかと、こちらを気にしながら走り去る。

「二度とこの町に来るなよっ」

 正の背中に向かって増田さんが叫ぶ。

「美月ちゃんに手出ししたら、今度はただじゃおかないからねっ」

 喜代さんも叫ぶ。

 源太さんは、ひたすら仁王立ちで威嚇し、振り返り振り返り逃げていく正を睨みつけていた。

 正の姿が商店街から消え。周囲の人たちも、一件落着というように先ほどまでの賑やかさを取り戻しいていくと、徐々に場の雰囲気が和らいでいった。源太さんの鋭い表情は、いつも通りの悪気ない厳つさに戻り。増田さんと喜代さんの顔も穏やかになる。

「さてさて。帰りましょうかね」

 何事もなかったような顔で、喜代さんは私を見て微笑む。

「おでん。買いにおいでね。今日もいい具合に大根が煮えてるんだよ」
「うちもさっき唐揚げ、揚げたばっかなんだよ。ジューシーで旨いぞ」

 増田さんが得意気な顔をする。

「今日の和菓子は、白あんで作った紫陽花の練りきりだ。緑茶によく合う」

 ぶっきら棒だけれど、愛のある話方で源太さんが片方の口角を上げる。そうして、みんながみんな永峯君の肩にトンと手を置き頷くようにして笑みを見せたあと、それぞれの店へと戻って行った。

 黙り込み立ち尽くしていた私を振り返り、永峯君が大丈夫? と窺い見る。私は、自分のしようとしていた暴力行為に落ち込んでいて彼の目を見ることもできないし、訊かれたことに頷くこともできない。永峯君にあんなに怖い顔をさせてしまったことに後悔が尽きない。ほんの一瞬の間に、嵐のように色んな出来事ことが起きて、心をかき乱された。憤りや後悔。それ以外にもあるだろう説明のつかない感情にこぼれ出た涙。頬に残るその痕を手で拭う。

「あの……、私……」

 声に出したはいいけれど、何をどう伝えればいいのか解らず言葉に詰まる。

「ちょっとお茶しに行こうか」

 黙り込み落ち込む私に向かってかけられたのは、いつもの声と穏やかな表情。その優しさに、また涙が込みあがり目の前を歪ませる。堪えきれずに零れ落ちてしまった雫を、彼の親指が優しく拭ってくれた。こんなに優しい手に、汚い感情を持つ私が触れてもいいのかな。彼の純粋な心を汚してしまっていいのな。
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