一途であまい
 躊躇いや戸惑いを覚えている私に気づくことなく、永峯君が手を取り導くように歩き出す。繋がった手の暖かさに安堵しながら、振りほどきたい衝動にも駆られた。拮抗する感情に、心はキリキリと痛む。

 手を引かれ、旧商店街と言われる道へと進んだ。小さなたこ焼き屋を過ぎ、リペアショップを横切り、図書館を横目に大きな公園を抜ける。レンガ通りに入り、以前テイクアウトしたイタリアンレストランを通り過ぎると花屋が見えてきた。その角を曲がって少しすると、可愛らしいカフェと雑貨屋が向かい合わせで建っていた。

 看板に「SAKURA」と描かれたカフェは木目を基調とした白く塗られた壁に、スカイブルーのドアが夜でも爽やかに眩しい。低い甲板を上がり、ドアに手をかけ開けると、柔らかなカウベルと、ふわっとした雰囲気の素敵な女性が迎え入れてくれた。

「いらっしゃい。俊介君。久しぶりね」

 ここでも彼は顔見知りなんだ。

 こんな状況でも、心の奥底に潜んでいた嫉妬心が反応してしまう。浅ましい感情。

 奥にあるテーブル席に案内され、向かい合わせに腰かける。

「何かあったかい物を飲もうか。コーヒーがいい? それともほっとチョコレートやミルクティーがいいかな」

 ドリンクメニューを差し出し訊ねられながら、自分の狭量に心が苦しくて彼の目を見ることができない。俯き黙り込む。

「ここはね。コーヒーももちろん美味しいけれど。他の飲み物も絶品なんだよ」

 反応しない私に嫌な顔一つせず、手を上げ店員さんを呼びチャイを二つ頼んでくれた。

 少しして運ばれてきたチャイは、ほんのり甘い香りがしている。

「シナモンは、お好みで」

 添えられたシナモンパウダーの小さな入れ物が、玩具みたいに丸くコロンとしていて可愛らしい。

 チャイから上る湯気が霧散していく中、いつまでも口を開かない私にかわって、永峯君が静かに語りだす。

「僕ね。美月ちゃんとこうしてお茶したり、ケーキを食べに行ったり、美味しいねって笑いあったり。そういうの、ずっとしていきたいんだ。だから、美月ちゃんから笑顔を奪うようなことが起きたら我慢ができないんだよね」

 先ほどの自分の行為を振り返ってか、照れたような恥ずかし気な言い方をした。

 彼が言うことは、よく分かる。私だって同じだ。映画やドラマみたいな、驚くような出会い方をした彼と、大好きな甘いものたちに囲まれて過ごすことができたならどれほど幸せか。けれど、考えてしまう。偶然会った夜のカフェで、失恋話を聞かされ。単に、情けをかけただけなのではないかと。あと数日もすれば、この気持ちが愛ではないと気がつき、どうして私なんかと一緒にいるのかと疑問を感じるのではないかと。正に手を上げる醜態を見せた私を、下品な女だと嫌うのではないかと。

 永峯君のことをずっと見てきただろう女子高生の詩織ちゃんに、彼の何を知っているのだと詰め寄られたなら、片手で足りるくらいのことしか答えるこができない。スイーツが好きで、料理が得意で。バーテンダーをしていて、怒ることの苦手な笑顔の素敵な人。私は、彼のことを何も知らない。何も知らないまま、彼を傷つけてばかりいる。それに、彼の笑顔は、周りにいる人に幸せな気持ちを運んでくる。商店街の人たちにも、バーのマスターや涼音さんにも。なのに、私のせいで彼にあんなひどい顔をさせてしまった。

「私……。永峯君から……笑顔を奪うようなことしちゃったね……」
「美月ちゃん……」
「こんなことに巻き込んでしまって……、ごめんなさい」

 チャイの香りが立ち上るカップだけを見て頭を下げた。悲しい顔をしているかもしれない彼を見ることが怖かったんだ。見つめ返せば、きっと永峯君はいつものように穏やかな表情になるだろう。笑顔を見せてくれるだろう。だけど、それって無理をさせているってことだよね。私のために頑張って浮かべなきゃならない笑顔なんて、本当の彼じゃない。

 正に殴り掛かろうとした醜い姿は、永峯君の中に一生残り続ける。あんな醜悪な顔をして、手を振り上げた姿を忘れることなどないだろう。こんなひどい女の本性を知って愛想を尽かすに決まっている。たとえ今、そんなことはないという言葉を聞かせてくれたとしても、徐々にあの日のことが彼の心に暗い色を塗り込んでいくに違いない。

 やはり調子に乗り過ぎていたのだ。正と別れてすぐに、永峯君のような素敵な人が恋人になってくれたことに浮かれすぎた。三つも年が離れているのに、私の方がやることなすこと子供みたいで永峯君を振り回して。滝口さんのことにしろ、正のことにしろ。嫌な思いばかりさせている。いつも冷静に対応してくれる彼だって、心のどこかで見限り始めているに違いない。真面目でつまらない性格をしているくせに、こんな時には自分をコントロールできないのだから綻びは始まっている。

「ごめんね。永峯君の優しさに甘えてばかりいて。私の方が年上なのに、助けてもらってばかりだよね。迷惑かけて、ごめんなさい」

 少し一人になって考えた方がいい。こんな風に甘えてばかりで、周りのことが見えていないようでは、また同じ過ちを繰り返す。彼から笑顔を奪ってしまう。そんなことは、しちゃいけない。商店街のみんなから、いっぱい愛されている彼を独り占めにしたいなどと勘違いした罰だ。

 出されたチャイに一度も口をつけることなく席を立つ。

「美月ちゃん……」

 永峯君が驚いたように私を見る。

「少し、一人になって考えようと思う」

 頭を下げて、逃げ出すようにカフェを飛び出した。私の名前を呼ぶ永峯君の声が背中に届く。悲し気に鳴るカフェのカウベルの音が、耳の奥で木霊した。

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