一途であまい
 こんな思いをしたというのに、正から貰った指輪を外すことができい。私の誕生日に、正がくれた指輪だ。いつかダイヤのついたものをプレゼントしたいと話していた言葉まで添えられていたのだから、期待しない方がおかしいだろう。将来の夢がこもった指輪は鈍く光り、呪いみたいに未だ指に絡まりついている。さっさとはずして捨ててしまえばいいのに、そうできない未練がましい自分を笑ってしまう。

 それでも、こうしてちゃんと仕事に来た私を誰か褒めて。

「あ、高坂さん。おはようございます」
「真美ちゃん、おはよう……」

 亡霊のような挨拶を返すと、ファッションモデルみたいに華やか且つ清楚な彼女は眉を八の字にして指摘する。

「どうしたんですか⁉ お化粧のノリ最悪じゃないですか。瞼も腫れてるし。大丈夫ですか?」

 全くと言っていいほど大丈夫ではないのだけれど、昨日の出来事を後輩にぺらぺらと話すほどお気楽な性格はしていない。かと言って、平気なふりができるほど強くもない。

 そもそも化粧のノリが悪いとか、瞼が腫れいているとか。はっきり言われすぎて益々落ち込んでいく。真美様。お願いだから、追い打ちをかけないで下さい。泥のように溶けて、床に広がってしまいそうだ。

 快活な真美ちゃんは、お先です。と可愛らしいスカートを翻して先を行く。

 素敵な服を素敵に着こなし。落ち度ひとつないメイクとヘアスタイル。真美ちゃんの周りはいつも明るくて、煌びやかな光が降り注いでいる。今の私には眩しすぎて、目が眩みそうだ。ガックリと肩を落としているところへ、澤木夏奈先輩がやって来た。

「おはよう、美月」

 いつも通りに挨拶をしてきた先輩に向かって、助けを乞うように涙目になる。その瞬間に、私が抱えているあらゆる状況を導き出したように先輩が立ち止まった。

「美月。今日はとことん付き合うよ。なにがいい? 銀座のチーズケーキ? それとも六本木のタルト? なんでも言って。奢るから」

 一瞬で状況把握をしたように、澤木先輩が慰めようとしてくれる。しかし、まさか結婚目前だと思っていた相手に昨夜ふられたとは思いもしないだろう。しかも、相手の女性のお腹の中には、既に子供まで宿っているのだ。

 澤木先輩は私と二つしか違わないのに、とても優秀で頼れる先輩だ。同じ営業二課にいて、一課にも名前を轟かせている。その優秀な先輩には、同じように優秀な宮沢紘暉先輩がそばにいる。私には、羨ましい光線が炸裂し過ぎていて、真美ちゃん同様に眩しすぎる存在だ。

「こんな時は、お酒でも飲めれば少しは違うんですかね……」

 ぼそぼそと床に向かってこぼす私の肩に、澤木先輩がそっと手を置いた。

「お酒が飲めなくたっていいじゃない。落ち込んだ時は、好きなものを口にする。それが正解なの」

 アルコールに弱い私を慰めるように、先輩がケーキの種類を数え上げる。

「ショートケーキだってモンブランだって。タルトだっていいからね。美月が食べたいものを食べればいいんだよ」

 そうなのだ。私は、お酒に頼ることができない体質なのだ。全くアルコールがダメというわけではないのだけれど。コップ一杯のビールで、すぐにヘロヘロになってしまう。周りを見れば、お酒で憂さ晴らしなんていうのは日常茶飯事で。それができる人たちが本当に羨ましい。酔ってクダを巻いて、カラオケで演歌を熱唱する部長を羨望の眼差しで見た事さえあった。

 私が憂さ晴らしをする時は、スイーツにまっしぐらだ。とにかく美味しいスイーツを食べまくる。しかしその行為は、三十歳目前の体には厳しい状況になってきている。

 普段は気を付けている。なるべく野菜から口にするようにしているし、和食中心の食事を心がけてはいる。けれど、体がどうしても欲する。月に一度か二度は、高カロリーのB級グルメを欲しがるし。スイーツに至っては、常に食指が伸びてしまう。わかっていても、これだけはやめられない。そろそろランニングでも始めないと、スカートがサイズアップしそうだ。脇腹に付いた、ぷよっとしたお肉に触れて溜息を吐く。

 どんよりとした空気を纏う気持ちを少しでも上げようと、澤木先輩が気を遣ってくれるのだけれど昨日の今日だ。いくら脳内お花畑の私でも、直ぐに明るく振る舞うなんて無理。

 肩を落とし、今にも泣きそうな私の話を聞くために、澤木先輩が終業後に時間を作ってくれると言う。持つべきものは、頼れる先輩だ。私は、藁をもすがる思いで今日一日を何とか乗り切った。

 夕方。スイーツ付きで話を聞いてくれるという澤木先輩を自席で待っていた。仕事のできる彼女は、なるべく残業にならないようにタイムスケジュールを組み立て動いている。それでも、抱えている案件が多いせいで全く残業がないなんてことはない。とても忙しい人なのだ。メッセージが届いたのは、終業時間が三十分程過ぎてからだった。

「美月、連絡が遅くなってごめん。そっちに戻るまで、もうしばらくかかりそうなの。待てる?」

 忙しそうなメッセージを受け取ってしまっては、待ちますと言えるはずもない。急に予定を捩じ込むなんて、無理をさせるわけにはいかない。また次回話を聞いてもらうということで今回の好意は辞退した。それにしても。

「空しい。ふられた翌日に、誰にも愚痴ることなくまっすぐ帰宅だなんて、空しすぎる」

 声に出すと切なさが増して、浮かれていたあの瞬間の自分が益々情けなくなり涙が滲んでくる。グズッと鼻を鳴らし、指先で涙を拭う。

 正は、何時からあの女性と私、同時に付き合っていたのだろう。私と会わない日に、あの女性と愛し合っていたのかな。結婚を意識させる年齢の私が疎ましくなったのかもしれない。だから、年下の可愛らしい女性に手を出したのかも。違うか……。もしかしたら、手を出されたのは私の方なのかもしれない。ちょっと遊ぶくらいのつもりで付き合ったら、あんまり都合がいいものだから、ずっとキープされていたのかも。私の方が浮気相手だったのかもしれない。ちょっと声をかければ浮かれてやってくるのだから簡単だよね。

 想像すればするほど悪い方にしか考えは及ばず打ちのめされていく。

 まっすぐ帰る気にもなれずフラフラと歩いてみれば、今まで気にもしなかった光景が今日はやたらと目についた。通りを見渡せば、恋人同士が多いこと、多いこと。一昨日までの私もこの中の一人だったのだ。それが今では、結婚をチラつかせ過ぎてふられた哀れな三十目前女よ。笑うしかない。

「コーヒーでも飲んで帰ろうかな」

 目の前にあったチェーン店のカフェ前で足を止め、店の灯りに吸い寄せられる虫のようにドアを潜った。

「いらっしゃいませ」

 無駄に明るい笑顔で迎えられる。マニュアル通りの挨拶が白々しく見えるのは、負の感情に支配されているせいだろう。

 メニューを見ると数種類のケーキが写真付きで載っていた。どれも、よくある大量生産されたデザートだとわかっていても、注文してしまうのは仕方ない。だって、私。昨日ふられたんだからっ!

 落ち込んでいたはずなのに急激に怒りが湧き上がり、体がカーッと熱くなる。さっきまでの、情けなく泣き出しそうになっていた姿はどこへやら。今は怒りに震える感情に、抑えが利かなくなりそうだ。

 自棄酒の代わりの自棄デザート。これは当然の流れよ。
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