一途であまい
 レジのメニューに怒りをぶつけるように、ショートケーキーとコーヒーのセットを勢いよく指で示した。私の指が鋼鉄でできていたなら、さした箇所には確実に窪みができていたはず。カウンターごと破壊するくらいの勢いだ。

 私の行動に怯んだ店員が、若干の苦笑いを交えてお会計を済ませてくれた。二階席へ行くと、ここにも数組のカップルがいた。

 もうっ、カップル入店禁止!

 テーブル席に座る恋人たちに背を向けるようにして、トレーに乗ったケーキセットを窓際のカウンターテーブルに置く。心の中の憤りを抑えきれずドスンと椅子に座ると、隣の大学生風の男性が驚いたようにこちらを見た。その後人の顔をマジマジと見たてから、驚愕したように更に目を見開く。どうやら勢い良く座り過ぎたようだ。

 注目を浴びるような自らの行動に、少しばかり落ち着きを取り戻す。申し訳なさに、すみませんと小さく会釈をすると、何故かとても嬉しそうな表情されたしまった。まるで、以前からの知り合いみたいな笑みをする。しかし、こんな年下男子など周りには存在しない。怒りに任せて座ったことが、若い子にしてみれば嘲笑に値するのだろう。

 いいさ、いいさ。好きに笑ってくださいよ。彼氏を寝取られ、自棄スイーツをするアラサーなんて、笑って貰うくらいが丁度いいですから。

 荒んだ気持ちのまま、トレーにあるショートケーキに目を向けフォークを握りしめる。まるで元彼だと言わんばかりに睨みつけ突き刺した。この瞬間の隣からの視線は容易に想像できるので、けして横に視線は向けない。殺気充分で怒りに任せてショートケーキと戦う女を、どうせまた笑っているに決まっている。

 大量生産されたケーキの味など、たかが知れている。澤木先輩と食べるはずだった銀座のチーズケーキや六本木のタルトに広尾のショートケーキ。あ、最後のショートケーキは予定になかったかな。まー、いいや。そのどれにだって敵うはずがない。わかっている。わかっているけれど、一口食べればささくれ立った心に広がる甘いクリームについ頬が緩んでしまう。現金過ぎる。しかし、やはりというべきか。今日食べようとしていた数々のスイーツに及ぶはずもなく。つい厳しい感想がもれ出た。

「クリームはフレッシュ感がないし、スポンジも目が粗い。バターをケチっているのか、少しパサついてるじゃない。もう少ししっとりしてるといいのに。それにこのイチゴ。クリームが甘いのに、酸っぱすぎでしょ。甘いイチゴを選別するにはコストがかかるなら、クリームの糖分は控えたらいいのに」

 ぶつくさと呟いていると、隣に座っていた男性の視線がやたらと突き刺さることに気がついた。

 独り言が過ぎた……。静かに一人の時間を満喫していたかもしれない大学生男子の時間を邪魔してしまった。

 フォークを口にくわえたまま、申し訳ない表情でそっと窺うように隣へ顔を向ける。すると――――。

「僕も同じ意見です」

 突然の同意に口の中のフォークもそのままに動きが止まる。大学生はそんな私に向かって、うんうんと共感するように頷いた。

 予期しなかった状況に驚いた。まさか、見ず知らずの若者に話しかけられるなんて思いもしなかったし。静かにしてくださいと注意をされても、不思議ではない状況だ。なのに、怒るどころかまさかの共感。

 見知らぬ大学生の彼は、さっき私が勢いよく椅子に越し掛けた時に見せたのと同じ、好意的な笑みを向けてきた。

 だから、知り合いかって。

 思わず胸中で突っ込む。

「待ち合わせでしかたなく入ったカフェだけど、まさかこんなに残念なショートケーキだとは。本当、がっかりですよね」

 私の脳内を知る由もない大学生は、ケーキの感想を口にする。しかし、言葉のわりにはとてもご機嫌な顔をしているから、なんだかちぐはぐで面白い。彼の前に置かれているトレーを見ると、コーヒーが半分ほど残ったカップと。私と同じショートケーキが乗っていただろうパーチの白い紙が残っていた。どうやら彼も同じものを食べたようだ。

 同意を求められ、ご機嫌な彼の表情に心の中を宥められていく。さっきまでのいきり立っていた感情が自然と凪いでいった。きっと、自分の好きなものに対する意見が同じだったからだろう。

 彼は真っすぐこちらを見ながら、今言ったケーキの感想について意見を求めてくる。その顔に向かってコクコクと頷いた。同時に、心にふわっと侵入してくるものに私は戸惑いを覚えていた。まるで、有名店の美味しいケーキを初めて口にした時のような、なんとも言えない幸福感というか。とにかく、心がふわふわっと浮いてくるような心持ちだ。

「ケーキ好きですか?」

 浮ついているところへ訊ねられて、もう一度素直に頷いた。好きなんて、生易しいものじゃない。お酒が苦手な私にしてみたら、ストレス社会を生きるためにスイーツはなくてはならないものだ。嬉しい時も悲しい時も、スイーツを食べることで心を幸せに導いてきたのだから。まさに、生きる糧と言えよう。

「僕も大好きなんですよ。美味しいデザートをみつけるたびに、テンションが上がります」

 あまりに人懐っこく、共感できることを言うものだから。まるで本当に前からの知り合いのように「そう。そうなのよっ。こんなところにも美味しいスイーツがあったんだって思うと、もう嬉しくって」とはしゃいだ声を上げてしまう。

 そのすぐ後に、隣に座る彼の表情に気づきハッとする。だって彼は、まるで我が子を見守る親のような慈愛に満ちた表情をしていたのだから。私は自身の幼稚さに羞恥を覚え、顔が引き攣りそうになる。

 大学生相手に子供染みた態度をとるなんてドン引きじゃないよ。カフェに行ったら、こんな痛い女が居たんです。なんてSNSにでもあげられたら、生傷を更に抉られてしまう。

 慌てて視線を逸らし、冷静になろうと試みる。なのに、心のふわふわはさっきよりも膨らんでいて。掴みどころのない感情を探るようにくすぐってくる。

 再び隣を見る。愛想よく話しかけてくる彼をよくよく観察してみれば、髪の毛は少し茶色くて顔は甘くアイドル系。ちょっとチャライ感じはするものの、相手をイヤな気持ちにさせない接し方をするのは、彼の人となりだろうか。丸みを帯びたような柔らかな声音が見た目のチャラさを緩和している。

「もう少し先に行けば、いいカフェがあるんですけどね。今日は臨時休業でした」

 残念ですと付け加えるわりには、やはりニコニコとしている。言葉と表情が釣り合っていない。彼は、普段から笑顔を絶やさない努力でもしているのかな。そんな風に思えるくらい、笑みを浮かべていることが自然でもあり、訓練されてでもいる気がした。

「この辺、よく来るんですか?」

 彼のことを、まじまじというように眺め過ぎたか。問いかけられて、ちょっと動揺した。

「あ、いや。うん。まあ、会社から割と近いかな」

 訊ねられた質問に素直に応えてから、マズったかなと警戒する。世の中には人の良さそうな顔をして、平気で相手を陥れる人間もいる。普段ならチャライ風貌の大学生相手に、素直に自らのことを口にしたりはしないだろう。けれど、今日の私は彼にふられたことで油断していたのか。はたまた、普段にはないシチュエーションと年下相手に心の壁が簡単に跨ぎ越えられるほどに低くなっていたのか。どちらにしろ。彼に対して、嘘をついたり誤魔化したりという気持ちにはならなかった。

「仕事で疲れている時には、甘いものが欲しくなりますよね」

 彼は、屈託なく話しを進めてくるから、つい会話を続けてしまった。

「仕事もそうなんだけどね。それよりも、もっとダメージの大きい出来事があったから……」

 初めて会った大学生相手に気を許してしまった私の口からは、言葉がほろほろとこぼれ出す。先輩に会って、愚痴を言う予定だったものを飲み込んでしまったせいかな。胸の裡にため込んでいたものが次々と口をついて出た。

「ずっと付き合ってた彼にふられちゃって……」

 彼の瞳が少し大きくなった。こんな話をされて迷惑に思ったのかもしれない。けれど、言葉は止まらなかった。見ず知らずの大学生相手に、何を話しているんだと思っても吐き出さずにはいられなかった。

 それがどうしてかといえば、驚いていた彼が、そのすぐあとにはとても優しくて包み込むような表情を向けてくれたからだ。

「こんな話、ごめんね……」
「気にしないでください。いいじゃないですか。知り合いじゃない人に話しちゃえば、どこにどう広がるなんてことも考えなくていいから気も楽でしょ。おまけに、スッキリしますよ」

 確かに。下手に知っている人に話してしまえば、尾鰭背鰭がついて余計な事態になることがある。澤木先輩くらい親密な付き合いのある関係なら別だけれど。社内で挨拶やフロアが一緒程度の人に話してしまえば、しょうもない同情が集まるか。面白おかしく拡散されて、更に落ち込んでしまうだろう。なら、全く何も知らない。関係のない相手に話す方がよっぽどいい。

「三年付き合っててね。そろそろ結婚かなぁなんて思ってたんだよねぇ」

 言いながら、薬指にはまる指輪に触れる。

「けど、そう思ってたのは私だけだったみたい。それに、もう一人の可愛い彼女が妊娠しちゃったみたいでね。そんなことになっているなんて、少しも気がつかなくて……。別れて欲しいって言われた時、彼を引き留めることもできなくて……。頭の中ではね、色んなことが浮かんでたの。けど、何一つ口にできなかったよ……」

 未練がましく指輪をつけたままでいるのは、私のもとに戻って来てほしいと僅かな希望が捨てきれないせいだ。そんなことがないのは解っているのに、情けなくも外すことができない。

 話したあとに無理やり口角を上げ、残っているショートケーキにフォークを突き刺し、大口を開けて頬張り無理矢理口の端を持ち上げる。笑ってでもいないと泣けてしまう。

「美味し……」

 へへっと声を出したら、彼の手がこちらへと伸びてきて頭に優しく置かれた。

「ずっと我慢してたんですよね。よく頑張りました」

 包み込むような柔らかな笑みの彼を見ていたら、ポロリと大粒の涙がこぼれ出るから慌てて拭った。

「ご、ごめん」

 謝る私に彼は優しく首を横に振る。泣いたっていいんだよって言うように穏やかな顔をする。おかげで、また一つ涙が零れてしまって、私はまた急いでその雫を拭ったのだけれど、次から次へとこぼれ出てくる涙に追いつかない。すると、彼がそっとハンカチを握らせてくれた。

「使ってください」
「ありがと……」

 彼に借りたハンカチで目頭を抑え、涙で乱れた呼吸を整える。ハンカチからは、優しい柔軟剤の香りがした。

 見ず知らずの人に優しくされるなんて、この先一生かかってもあるかどうかわからない。慰められて、優しく頑張ったねって労われ。堪えていたものもが一気にあふれ出た。止めどなく出る涙にハンカチを湿らせると、彼の手が背中にそっと触れる。人の温かさが染みるとは、こういうことなのだろう。年下だとか。見ず知らずの人だとか。そういう一切合切をすべて取り払うように、彼の手はただただ優しかった。今この時に私が必要としているものが、この手に込められている気がした。

 ほろほろと零れる涙を彼のハンカチが優しく受け止め続け、なんとか気持ちが落ち着いてきたころ小さくメロディが聴こえてきた。テーブルの上に置いていた彼のスマホ画面が光っている。

 ごめんね、と申し訳なさそうにする彼の顔に向かって首を横に振る。謝る必要などない。

「待ち合わせていた相手から、やっと連絡がきました。サラリーマンて、そんなに忙しいんですかね」

 少しだけ肩を竦めて笑みを見せると、トレーを持って席を立つ。

「ゆっくり話ができなくて、ごめんなさい。あ、そうだ。ここから真っすぐ先に行ったところのケーキ屋さん。八時には閉まっちゃうけど、美味しいので是非食べてみてください。じゃあ、また」

 手を上げて踵を返そうとした彼が思い直したように言葉を足す。

「ここのケーキはイマイチでしたけど、カフェって謳っているだけあって。コーヒーは、なかなかいけますよ」

 周りに聞かれないようにと気を遣ったのか耳元で囁いた。ほんの少しかかった息に心臓が反応する。

 可愛らしい笑みを残して、彼が店を出ていった。席に座ったまま目の前の窓から外を眺めていると、同じくらいの年齢でスーツを着た眼鏡の男性と駅の方へと向かっていく姿が見えた。その姿を見送っていると、ふいにくるりと彼が振り返る。私の座るカウンター席を振り仰ぎ大きく手を振る。友達相手にするような親しみのこもった様子に、私も黙って手を振り返す。

「かわいい」

 思わず漏れ出た正直な感想に苦笑いが浮かぶ。

「大学生かと思ったけど。違うのかな?」

 グズグズと鼻を鳴らしたあと、手に握られたままのハンカチに気がついた。

「返すの、忘れちゃった……」

 ほんの少しの間だけれど、彼に失恋話をしたおかげか、気持ちはカフェに入る前より軽くなり。ささくれ立っていた心が穏やかに落ち着いている。コーヒーを口にすると彼が言うように悪くない味だった。手を振る彼の姿を思い出すと、心が少しだけふわりと軽くなっていた。
< 4 / 27 >

この作品をシェア

pagetop