一途であまい
 夢を見ていた。嬉しくて泣きそうなほどに、とても優しい夢だ。触れる何かが温かくて、離れがたく。吸い付くように温もりを抱き寄せた。耳に届く言葉が幸せで安心する。何度も温かさに触れ、優しさに導かれ。子供のように穏やかに心が満ちていった。

 このままずっと――――。



 頬を撫でるような心地いい風が吹いている。髪の毛がさわりと揺れた。窓を開けたまま、寝てしまったかな。前髪をかき上げられるような感覚と、近くで感じる穏やかな息遣い。身体に触れる温かさは、夢で見ていたのと一緒だ。まだ夢の続きにいるのだろうか。だとしたら、もうしばらくこのままでいたい。幸せな感覚に包まれ、吐息をつく。僅かに体を動かし、温かな布団からする太陽の香りに瞼をゆっくりと持ち上げる。ぼんやりとする思考。視界に映るのは、私を見つめる優しい瞳。

「おはよう」

 目の前には、未練を捨てきれない相手が優しくこちらを見つめていた。声音は、愛しく優しい。

 永峯君がおはようだって。これは夢の続きか、なんて幸せな夢だろう。このままずっと、このまま……。

「このまま――――。えっ⁉」
「ん?」

 驚愕に眼を見開き、一気に思考が覚醒する。ベッドに横たわる彼が、同じようにベッドに横たわる私に不思議そうな顔を向けてきた。

 ちょっと待って。なになに。どういうこと。どうして永峯君がいるの⁉ いや、待って。この布団、私のじゃない……。
 飛びのくようにしてベッドの端に行く。力強く掴んだ布団の柄は、爽やかなスカイブルー。いつものマリメッコ柄じゃない。あたふたとしながら視線をさ迷わせる。

 ここ、私の部屋じゃ……ない。

 現状を飲み込めないまま、今ある状況に愕然とする。だって、私。なにも身に着けていな……。待って、待って。よく考えるのよ、美月。何がどうなってるんだっけ。

 永峯君にハンカチを返したくて、ときわ商店街に行ったのは昨日。そうっ。パン屋で会った素敵な女性と永峯君が一緒にいてめちゃくちゃショックを受けたんだ。なんなのよ、あんなに素敵な彼女がいるくせにっ。きーーっとなり。歓迎会の席でアルコール入りのカクテルを一気に飲んでしまいヘロヘロに……。酔って外に出たら、何故か永峯君がいて。それで……。それで、タクシーに乗って……、どうしたんだっけ?

 どこにでも出没する彼に何か言ったような気はするけれど覚えていない。そして、タクシーに乗ったあとの記憶は真っ白だった。

 脳内をフル回転させていると、頬に永峯君の手が伸びてきて優しく触れる。

「気持ち悪くない?」

 訊ねられたことに微かに首を動かした。自慢ではないが、アルコールには弱いけれど、今まで一度も二日酔いというものになったことはない。

「だ、大丈夫」

 口にしてみたけれど、この状況はけして大丈夫ではない。いい年をして、一体何をやっているんだ。相手は、大学生。下手をすれば、未成年の可能性だってある。ということは、私……犯罪者。ひっ。

 あまりのことに口内はカラッカラに渇いていた。いや、これはアルコールのせいで渇いているのかもしれない。

「何か飲む?」

 訊ねた永峯君は自然な振る舞いで私の頭にキスをするものだから、驚きに金縛りにあったみたいに固まった。
 こ、これは、どういう事態なのか。どうして、頭にキスが降りてくるのか。わからない、わからない……。誰か、教えて……。

 水を取りに行くために布団を出た永峯君は全裸だった。これが現実だというようにまざまざと突き付けられ慌てて目を閉じた。けれど、すぐにチラリと薄眼を開けてしまう。目元まで布団をたくしあげつつも、しっかりと観察する。見た目アイドル系で筋肉とは無縁に思える雰囲気だけれど、肢体は引き締まっていて余分なお肉がない。私の緩いボディとは大違いだ。彼はベッドから出ると、脱ぎ捨てられた下着とズボンを身に着けキッチンに立つ。

 この状況に私の心臓は張り裂けそうだ。ドクドクというよりバクバクとしていて。このまま爆発してしまうかもとない胸を押さえる。頭にキスが降りてきたのはもちろんのこと。どうしてこんなことになっているのか解らないことが、じわじわと内臓を侵食していくみたいに変な汗が出てくる。

 持ち上げた布団からそっと目を出したまま部屋の中を見回す。

 1LDKの部屋は、男性にしては綺麗に整っていた。ベッドのあるこの部屋には、デスクがあり、私が借りたハンカチが置かれていた。どうやら、ハンカチを返すという目的は果たしたらしい。傍にある書棚には、たくさんの本が詰まっている。酒に関するもが大半の中、ジャズに関連するものや漫画が収まっていた。

 漫画に興味があるのは解るけれど、この年齢でジャズと酒に興味を持っているなんて渋い趣味ね。

 ベッドルームの先のダイニングには、テーブルと二脚の椅子が向かい合い置かれていた。キッチンには拘りがあるのか、とても一人住まいの男性が使う様子ではない。フライパンや鍋が、よくある安物ではないのだ。まるで料理人が使うようなものばかりが置かれている。調味料などは、ぱっと見ただけではわからないようなものも見えるし。配置などにも拘りがあるのか、使い勝手を重視したシステムキッチンだ。

 パン屋で見かけたあの素敵彼女が、ここで料理をするのだろうか。部屋の中に女性を匂わせるような物は置かれていない。どこか目の届かない場所にしまってあるのか。洗面台の鏡の裏に、化粧品や揃いの歯ブラシが息をひそめているかもしれない。キッチン横にはドアがあり、きっとその奥が玄関だろう。若いのに、いい部屋に住んでいる。

 奥に玄関があるだろうドアを睨みつけ、裸の自分を振り返る。若い時のやらかしならまだしも。この年ではシャレにならない。今すぐここから出なくては。脱いだまま、ベッドの先の床にある自身の服を見て頭を抱える。あそこへ取りに行くまでに、永峯君がこちらを振り返るかもしれない。これ以上、醜い裸体を晒すわけにはいかない。

 グッと布団を体へ引き寄せ、一番近くに落ちている下着に手を伸ばそうとしたところで声をかけられた。

「水でいいかな? それともスポーツ飲料、買ってくる?」

 ビクッとなり、出していた手をすぐに引っ込め、首を横に振った。永峯君は、冷蔵庫から取り出したペットボトルを手に、ベッドにいる私を振り返る。細身の体でアイドル顔なのに細マッチョ。鍛え過ぎず、程よくついた筋肉がセクシーでまた見惚れてしまう。

 下着を手に取る間もなく、彼がこちらへ戻ってくる。グラスとペットボトルを片手に腰を下ろすと、ベッドのスプリングが沈んだ。私は布団を抱えるようにして上半身を起こし、グラスに注いでもらった水を口にしてなんとか一息つく努力をした。

「ありがと」

 どういたしましてと笑みを見せる。グラスとペットボトルをデスクに置くと、また頬に触れる。

「寝起きも可愛いね」

 心をきゅんとさせる言葉を、彼は躊躇いなく口にする。そうして、そっと唇を塞ぐ。当たり前のようにされたキスは、まるで恋人にでもなったような錯覚を起こす。しかし、永峯君には、あの素敵な女性がいる。ここでこんなことをしているなんて知られてしまったら大問題だ。こんなの、正のしたことと変わらない。そもそも未成年だったらという、恐ろしい事態でもある。親子さんが出てきて、訴えられてしまうだろうか。それとも美人局だろうか。こんなことをしているところへ、例の彼女がやって来て金銭をせびられてしまうのだろうか。この先一生付きまとわれ、脅され。臓器を売らなければいけないほどに、生きていく術総てを吸い取られてしまうのだろうか。

 テレビドラマの見過ぎか、想像はいくらでも飛躍していく。

 豊か過ぎる想像に慌てて離れると、彼はきょとんとした顔をする。

「ちょっ、ちょっと待ってくれる。頭を整理させて。その……」

 まるで手を放したら死んでしまうかのごとく布団を抱きかかえ、記憶にない昨夜を思い声が震える。が、整理するもなにも憶えていないのだから、整えようがないし。互いに全裸であるのだから、答えは一つしかない。

「どうしたの?」

 彼は、なにを待てばいいの? というように首を傾げる。

「あの、昨日のこと……」

 躊躇いながら口にすると、彼の目が少しだけ大きくなる。

「もしかして、憶えてない?」

 不安そうに問い返されてしまえば、ひどく悪いことをした気になって心が痛む。少しの間を置くと、彼はなぜかニッと笑った。

 その笑みは、一体……。

 何か嫌な予感がするも、昨夜何があったのかを知っているのは彼しかいない。主導権は彼にある。ゴクリと喉が鳴る。

「ベッドの中の美月ちゃん。とっても可愛いんだもん」

 待て待て待て。ベッドの中って、それってつまりは……やっぱり。

「美月ちゃんからしてって言ってくれた時、僕本当に嬉しくって」

 ちょいちょいちょいっ。私、自分で言ったの? バカバカ、何やってんのよ。相手は、アイドル系の年下よ。しかも、とても素敵な彼女がいるっていうのに、食べちゃダメでしょっ。

 自分の失態に項垂れていると、彼の手が再び頬に触れ、顔を上げてというように覗きこまれる。

「もっかいする?」

 驚愕に口をパクパクさせていると「ホント可愛いっ」と布団ごと抱き締められてしまった。

 こんなこといけないと頭ではわかっていても。嬉しい。嬉しすぎる。抱きしめられて、キスされて。こんな幸せなことなどない。だけど、ダメなのよ。この誘惑に引きずり込まれるわけにはいかないの。こんなことが彼女に知られてしまったら、大変なことになってしまうんだから。

「駄目だよっ。こんなの」

 必死に邪念を振り払い彼を押し戻し、布団を抱きかかえたままベッドから降りた。

「どうして? 昨日、言ったこと。嘘だったの?」

 捨てられてしまう子犬みたいな顔をしないでよ。罪悪感で死んじゃいそうだし、誘惑に負けちゃうでしょっ。

 そもそも昨日の自分が何を言ったのか、全く覚えていない。

「美月ちゃんは、僕とは嫌だったってことだよね……」
「いや、あの。そうじゃなくて」

 嫌というより、寧ろよろしくお願いしたいのだけれど。相手がいる人に対して、よろしくするのは人としての道理がね。

「え? 違うの?」

 嬉しそうな顔して訊き返してこないでよ。

「あのね。これは、その。間違いなのよ。なんていうか、ほ、ほら。私、元彼にふられたばかりだったし。永峯君優しいから調子に乗ったっていうか。それに、あれよ。アルコール。私、アルコールにはめちゃくちゃ弱くて。コップ半分で別世界というか」

 まとまりもなく、あれこれと言い訳を並べている目の前で、彼は不思議そうな顔をしている。理解できないのだろう。

「そ、それにね。ほら、永峯君の彼女にも申し訳ないでしょ。これは、なかったことにして。って、都合よすぎよね……。ホント、ごめんなさい。謝って済む問題じゃないと思うんだけど、私のせいで彼女と気まずいことになってしまったら……。平手の一発屋二発、覚悟します」

 頭を下げてべらべらとご託を並べていると、一瞬の間のあと彼が突然笑いだした。

「えっと。今の笑うところじゃないと思うんだけど……」

 こんな事態に、何故爆笑……。黒歴史になりそうで、ハイになってしまった?

「はーい。一つ質問です」

 可笑しそうな顔をしたまま、彼は生徒のようにまっすぐ手を上げ訊ねる。

「彼女って、誰のことですか?」

 ここにきて、それを訊くって何。まさか、誤魔化そうとしてる? こんな可愛い顔をして、人の良さそうな素振りで近づいて。悩みを聞いたり、スイーツで釣ったり。もしかして、はなから陥れるつもりだったの? 正と一緒で、簡単に二股をかけられるとでも思われていたってこと?

 そりゃあ、そうよね。カフェで一人ショートケーキにダメ出しをした後、ほろほろと涙ながらに失恋話している女なんて、ちょろすぎるよね。

 そうか、そうなのか。なめられていたってことなのね。よーくわかりました。
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