幸い(さきはひ)

第四章 ②

 朝食の後、外気浴(がいきよく)を行い、診察が終わると、桐秋は午前の研究に入る。

 研究を行う桐秋の部屋は、きちんと襖戸が開けられ、換気がしっかりと行われている。

 さらに庭に面した外廊下側の襖を、千鶴の提案で下半分がガラスになっている雪見障子(ゆきみしょうじ)に取り替えたため、日当たりも抜群だ。

 桐秋が研究を行っている間、千鶴は奥向きのことを済ます。

 まずは洗濯。桐秋の着物は上等な物が多いので、一旦ほどき、反物状に戻して洗う。

 細部までもみ洗いし、その後、洗って縮んだ着物を伸ばす「伸子張(しんしはり)」を行う。

 洗った反物状の着物を染織するように長く広げ、短辺の両幅を弧状にたわんだ竹針(たけばり)の「伸子」で蒲鉾(かまぼこ)状に幾重にも固定し、乾かす。

 手間ではあるが、この作業を行うことでぴんと布を乾燥させることができる。乾いたものは夜に着物の形に縫い直す。

 大変な洗濯を済ますと次は部屋の掃除。

 掃き掃除は濡れた古新聞を室内に散らして埃を吸着させ、静かに箒で掃く。

 こうすることで空中に埃を舞い上がらせることを防ぐ。

 拭き掃除はバケツの水に消毒効果のあるクレゾール石けん液を瓶の(ふた)一杯分ほど入れ、それにつけた雑巾を使用する。

 午前中は桐秋が自室で研究を行っているため、付近の掃除は控え、午後から桐秋に研究場所を移して貰い、桐秋の部屋周辺の掃除を行う。

 そうして午前の掃除が終わると、昼食の準備に取りかかる。

 今日の献立は、鶏団子の甘酢あんかけに、高野豆腐(こうやどうふ)と野菜の煮付け、わさび菜の醤油漬けに、リンゴ入りきんとんである。

 鶏団子は豆腐を混ぜてふわふわの触感にし、あんかけで喉のとおりをよくした。高野豆腐もだしをしっかりととり、鶏団子をゆでた汁を少し加えることで、薄味ながらも、噛みしめたときにうま味が口いっぱいに感じとれるようにと工夫した。

 昼も桐秋と一緒に食べるので、どれも倍の量を作らなければならない。

 大した手間ではないが、手間は手間。

 されどその手間に朝の出来事を思い出し、千鶴は心がふわりと温かくなるのを感じるのだった。

 支度が整った頃、ちょうど正午を告げる午砲(ごほう)が鳴る。それを合図にして千鶴は桐秋に昼食の声をかけた。 
 *
 今朝の桐秋の提案で、千鶴も自分の昼食の膳を用意し、桐秋と同じ部屋の少し離れた場所で食事をとる。

 互いに黙々と箸を動かし、会話はない。

 決して険悪な空気ではないが、微妙な間に居たたまれなくなった千鶴は箸を置き、気になっていた疑問を桐秋に尋ねる。

「桐秋様は、とてもご熱心に桜病(さくらびょう)の研究をなさっていますが、何か理由があるのですか」

 桐秋は千鶴の問いに茶碗と箸を持つ手を、それぞれ正座した腿の上に置き、思案するような表情を浮かべる。
 
 桐秋の考えこむような様子に、千鶴は踏み込んではいけないことだったかと思う。

 少し距離が近づいたと思い調子に乗ってしまった。

「いきなり無遠慮なことを申し上げました。お許しください。お話になりづらいことでしたら結構です」

 千鶴はそう言って頭を下げると、ふたたび箸を持ち、茶碗に手を伸ばす。

 そんな千鶴に桐秋は、いや、といって首を振る。それから、

「午後に少し時間をとれるか」

 と尋ねた。その問いに千鶴は頷く。

「なら、その時に話そう」
 
 そう言って桐秋は食事を再開させる。

 千鶴はまたそれにこくりと首を縦に振り、自身も残りの膳を取り始めた。


「少し休憩にしませんか」

 午後三時を過ぎた頃、千鶴は桐秋に声を掛けた。

 桐秋が自室から縁側へ出てきたところに、千鶴はぬるめのお茶と朝から作っていた水無月(みなづき)を置く。もっちりとした触感が楽しい小豆のお菓子だ。

 空を見上げると、黒い雲が少し立ちこめている。一雨くるだろうか。

 千鶴が部屋に入ったほうがいいかと考えている側で、桐秋は出されたお茶を一口、口に含み、口内を(うるお)わせるようにゆっくりと飲み込む。

 そして一呼吸置くと、静かに口を開いた。

「君が聞いた、なぜそこまでして桜病の研究を行うのか、という問いだが…」

 軒下から空を眺め、天気を気にしていた千鶴だったが、桐秋が話を始めると一人分、席を空けて隣に座り、黙って話に耳を傾ける。

「昔、出会った少女と約束したんだ。彼女の病を治すと。

 その少女が患っていた病気が桜病だった。

 だから今、その研究を行っている。」

 桐秋の言葉は強く、決意に満ちたものだった。

「彼女と出会ったのは十年以上前、あの庭の桜の花がわずかばかりほころび始めた頃だった。

 昔、あの桜の木の下にはベンチがあって、私はそこでよく本を読んでいた」

 千鶴は桐秋の言葉に導かれるように、青く茂った木の下のぽっかりと空いた空間に目をうつす。

「当時読んでいたのは、父に買って貰った西洋の本。

 季節を司る女神の手伝いをする妖精の話だった。

 夢中になって本を読んでいた私がふと、目線を上げると、桜の木の前に、いつのまにか幼い少女が立っていた。

 私はいきなり、眼の前に人が現れたことに驚いたと同時に、少女の容姿に目を奪われた。

 肌は(たま)のように白く、唇は桜の果実のように赤く艶めき、緩くウエーブがかかったような薄金(うすきん)の長い髪は、春の陽光を浴びてきらきらと煌めいていた。

 どこか不思議なその容姿は、少女が着ていた白いワンピースも相まって、今まさに読んでいた本に出て来る、春を告げる花の妖精にそっくりだった」

 少年だった桐秋は、ほんとうに花の精が現れたのだと思った。

 妖精と話がしたくて、怖がらせないようゆっくりと近づき、声をかけた。

「だが、彼女は私の存在を認識した瞬間、驚いて、逃げるように去ってしまった。

 でもなぜか、私は彼女がもう一度ここに来る気がして、本に書いてあった花の妖精が好きだという木苺ジャムのクッキーを持って、毎日、彼女を桜の木の下で待っていた」

 少女のことを思うと新しい本にも身が入らなかった

「一週間ほどたった頃だっただろうか、彼女は再び私の前に現れた。

 まるきり中身の入ってこない本から顔を上げ、頭上の桜の花を見つめていると、彼女は突如、満開の桜の雲から、座っていた私の(ふところ)へと降ってきた」

 端からみると、少女が降ってくるなどおかしな話だが、幼かった桐秋は、妖精であるならば、それも自然なことのようにも思えた。

「頭上に広がる薄紅色の花畑から、妖精がひっそり地上に舞い降りてきたように感じたんだ」

 桐秋は当時の自身の想いを恥ずかしそうに、苦く笑いながら吐露(とろ)する。

 けれどもその顔は千鶴が今まで見てきた表情の中で一番穏やかで柔らかい。

「懐に入った彼女と目が合って、当初彼女は何が起こったか分からず、固まっていた。

 が、状況を理解すると、再度逃げようとした。私は彼女を引き止めるため、クッキーはいらないかと声をかけた」

 花の精ならば、好物の木苺ジャムのクッキーに興味をそそられるだろうと。

「私の言葉に彼女はピタリと止まり、こちらを振り向いた。

 私は、ハンカチに包まれた木苺ジャムのクッキーを彼女の前に差し出した」

 少女はウグイスが鳴くような愛らしい声で、この真ん中の赤いのはなんだと尋ねてきた。

 桐秋が木苺のジャムだと答えると、少女はクッキーを一枚手に摘まんだ。

「彼女は水をすくうように優しく両手にクッキーを包むと、照りのあるジャムの部分を宝石みたいだといった。

 それから、クッキーを小さな口で恐る恐る一口頬張った」

 未知のものに一噛(ひとか)み、一噛みゆっくりと味わっているようだった。

「慎重に咀嚼(そしゃく)したものを飲み込むと、彼女の表情は一変した」

 不安気な困り眉が取りのぞかれ、光をちりばめたような瞳が潤み、ふっくらとした頬が淡く染まり、ぷっくりとした唇は柔らかに弧を描いた。

天色(あまいろ)の空に、春の陽光をたっぷりと浴びて咲きこぼれる桜の花のような、晴れやかに、澄みやかに輝く愛くるしい笑みがぱっと咲いた」

 一瞬で桐秋の心を満たした表情。桐秋にとって、その瞬間は今も胸に残る大切な宝物だ。

「それからほとんど毎日、彼女は決まった刻限(こくげん)に家を訪れるようになった。

 私も家の者には内緒で彼女に会った。

 一緒にクッキーを食べたり、本を読んだり、花畑に連れて行くと目を輝かせていたな。

 花冠をねだられたこともあった。

 初めて作った花冠は不格好で、とても人にあげられたものではなかったが、彼女はそれを喜んでくれた。

 薄金の空気をまとってなびく髪に、花冠を被って微笑む姿は、女神に祝福を与えられた花の精そのものだった。

 その髪があまりにも神々しく美しかったから、素敵な髪だと褒めたら、おばあちゃんと同じ髪なのといってますますはにかんで笑ってくれた」

 ゆっくりと、懐古(かいこ)するように紡がれる言葉は、一つ一つ大事に語られる。

 過ごした時は短いが、この幸せな時間は長く続いていくのだと小さな桐秋は何の根拠もなく思っていた。しかし、

「桜の花が散りはじめ、萌え出た青い葉が桜の木を覆い尽くしはじめたある日、いつものように二人で遊んでいると、急に彼女はもうここには来られないと言った。

 私が理由を尋ねると、彼女は自分が“桜病”という病気に(かか)っているのだと言った」

 少女の母はその病で亡くなり、自身も発症したため、治療を行うために引っ越すと言う。

「私は彼女に自分の父が医師であることを告げ、父に治してもらおうと提案した。

 けれど彼女は首を横に振り、自分の父も医者なのだと言った。

 自身のために父ができる限りのことをしてくれるから、それに従うと。

 私は、彼女の父も医者ならば安心だと思った。

 しかし、それを告げる彼女の顔はいつもの明るく可愛らしい顔とは打って変わり、驚くほど大人びていて悲しげだった。

 私はそんな彼女の表情にいてもたってもいられず、自分が桜病を治すと告げた」

 傍目に見れば子どもの戯言(たわごと)だろうが、幼い桐秋は本気だった。

「その言葉に彼女は大きな瞳をさらにまん丸に見開き、驚きながらも、嬉しそうにうなずいてくれた。

 最後に、繰り返すうち随分とうまくなった花冠を彼女の頭に乗せ、指切りをした。

 大人になって医者になり、桜病を治すと。

 彼女の指は白くて細かったが、温かい手だった。

 彼女は花冠をかぶったまま、満面の笑みを浮かべると、あっという間に去っていった」

 そう話す桐秋の目はどこか遠くを見つめている。

 あの日消えた妖精の陰を追いかけているのかもしれない。

 桐秋は一つ瞼を閉じると、話を続ける。

「彼女に出会った時、私は桜病という病を聞いたことがなかった。

 ところが彼女と別れた直後、不思議な感染症の噂を聞くようになった」

 その症状から付けられた病の名前は「《《桜病》》」

「桜病が確認されて間もなくは不明な点も多く、子どもへの感染も危惧されていた。

 彼女の父は医者だといっていたから、桜病の情報を事前に得ていて、似た症状があった娘を桜病と診断したのかもしれない。

 だが今となっては、桜病は成人病とされ、子どもが感染する事例は聞いたことがない」

――ゆえに彼女が桜病である可能性は限りなく低い。

――それでも、彼女の言うことを信じるのであれば、万が一、幼い子どもでも患う桜病があるのならば、桐明はそれを治す方法を見つけ出さなければならない。

「未だ桜病を治す治療法は開発されていない。

 世の中では桜病は終息したのかもしれない。

 しかし彼女の病を治さなければ、私の桜病は終わらない。

 私は必ず病気を治すと誓った。

 あの日結んだ小指の約束が、今も私と彼女を繋いでいる」

 桐秋は右の小指を見つめながら、決意の変わらない遠い日の約束を想った。

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