幸い(さきはひ)

第五章 ②

 朝の訪問医が来る時間。

 そろそろかと思っていた千鶴の耳にこの日聞こえたのは、いつも来る年配の医者のものとは違う若い声。

 千鶴は戸惑いながらも他の客が来たのかと思い、台所を出て玄関に向かう。

 ここに来る関係者で、玄関から入ってくる人間は、南山(みなみやま)といつもの訪問医以外にはいないが・・・。

 千鶴はそーっと玄関先に立っている人影を伺う。

 そこにいたのは、桐秋と変わらない年齢くらいの、帽子を被り、細身のスーツを身にまとった青年。

 千鶴はその顔を見て驚き、その人の名を呼んだ。

中路(なかみち)さん」

 千鶴に名前を呼ばれた青年は山高帽をとり、人の良い笑みを浮かべる。

「久しぶりだね。千鶴ちゃん」

 男性を千鶴は知っていた。

 医師になったばかりの頃、父の診療所で手伝いをしてくれていた青年だった。

 久しぶりの再会に千鶴は驚きながらも、懐かしさと嬉しさがこみ上げ、思わず笑顔になる。

 しかし、どうして中路がここにいるのだろう。

 そう思った千鶴は、そのままの疑問を彼に投げかける。

「中路さんがどうしてこちらに」

 それに中路はにこやかに答える。

「僕は今、上条(かみじょう)先生の病院でお世話になっていてね。

 先生が昨日腰を悪くされて、受け持たれていた分の訪問診療(ほうもんしんりょう)を僕が代わりに行うことになったんだ。

 それで南山さんのお宅にも伺わせてもらうことになったんだよ」

 上条先生とは桐秋の主治医であり、いつも南山家まで出向き、桐秋を診てくれている訪問医である。

 この近くで病院を営んでおり、桜病(さくらびょう)についても深い見識がある。

 南山家とは昔から家族ぐるみの付き合いで、それもあって桐秋の主治医を頼まれたらしい。

 当初は上条も桐秋に自院への入院を勧めたが、桐秋が(かたく)なに拒んだため、わざわざ往診をしてくれているのだ。

 その上条の元で中路は現在働いていて、腰を悪くした上条の代わりに南山家に出向いてくれたということらしい。

 事情を知った千鶴は、笑顔で中路を迎え入れ、桐秋の部屋に案内する。

 桐秋が寝室の縁側で空気浴を行っていると、廊下側の襖から千鶴の声が掛かる。

 訪問医の時間かと思い、千鶴に返事を返し、部屋に戻る。

 襖戸が開き、いつもなら先に入ってくるはずの上条の姿はなく、千鶴の後に続き入ってきた、見覚えのない青年に桐秋は眉を顰めた。

 その様子を察した千鶴は中路の紹介をする。

「こちら上条先生の代わりに診察に来られました、中路先生です。

 上条先生が腰を痛められたとのことで、治るまで代診をしてくださるそうです。

 私も昔からお世話になっている信頼のできるお医者様です」

 桐秋は自身が知らない人物が部屋に入ってきたということ、千鶴の知己(ちき)で若い医者であるということに、釈然(しゃくぜん)としない思いを抱えつつ、桐秋が安心するようにと紹介したであろう千鶴の手前、無表情に黙礼する。

 すると、中路は朗らかな笑みで朗らかな挨拶を桐秋に返す。

 桐秋とは違い愛想の良い青年のようだ。

 中路は早速、桐秋の診察を始める。

 中路は診察においても笑顔を絶やさず、穏和な雰囲気を崩さない。

 世間話を交えつつ、長閑(のど)やかに桐秋に話しかける。

 が、その間にも眼や手は上条から引き継いだ状態から変わったところはないか、鋭く桐秋の体を観察している。

 中路は言葉少なな桐秋からも的確な問診で情報を得て、次々と現状を把握していく。

 側に控えている千鶴にも、桐秋の普段の様子などを詳しく尋ねていた。

 必要な情報を患者から正しく得るには、医学的な見識はもちろんのこと、患者自身から症状を正確に引き出す技術も必要だ。

 特に後者は若ければ、患者になめられることもあり、難しい。

 けれどもこの青年は、桐秋のような難しい患者を代診とはいえ上条から任されている。

 それだけの腕をもっていることは折り紙付きだろう。

 桐秋も初めてで短い問診ではあったが、端々にそれを感じ取ることが出来た。

 桐秋が言葉を返さない時でも、様々に問いかけてみて、少しでも反応があればそこから話を広げていく。

 桐秋自身でも気づいていなかったような身体の変化を、そういえばと気づかされることが多々あった。

 これだけの技量は、彼本来の性格に起因することも大きいだろうが、多くの患者と関わらないと身につかない。

 変わらない年には見えるが、たくさんの経験を積み、学んでいるのだと分かる。

 桐秋は研究を中心として医療に関わり、中路は内科医として日々多くの患者と接している。

 性格も医者としての()り方も全然違う。

 それでも桐秋は、医師として自分の誇る仕事を全うできている中路に、それを見せつけられている現状に、(うらや)み、(ねた)む心がふつふつと湧くのを止めることができなかった。

 診察が終わり、千鶴は中路を玄関先まで見送ろうと後をついて行く。

 すると、玄関の前で中路は振り返り、千鶴に話しかける。

「少し話ができないかな。桐秋様のことで聞きたいこともあるし、」

 中路の申し出に桐秋のことならばと、千鶴は頷き、玄関横にある洋間に彼を案内した。

 二人はテーブル越しに向かい合って座る。

 千鶴は中路にここにきて記してきた桐秋の観察記録を見せた。

 桐秋の一日の行動を基本に、客観的に見た桐秋の体の状態から、その日の献立、食べた量、桐秋のふとしたしぐさで気にかかったことまで、千鶴は事細かに記していた。

 中路はそれを真剣に見ている。

 ときおり、気になることがあると、千鶴に視線を合わせて訪ねてくる。千鶴もそれに真摯にこたえた。

 中路と千鶴は四半刻ほど桐秋の現状に対する意見のすり合わせをして、今後の診療方針について話し合った。

 千鶴は南山に伝えたとおり、このまま桐秋の桜病の研究と、彼自身の病の治療を両立させたい旨を必死になって伝える。

 中路は、千鶴が南山に提出した看護計画を見ながら、千鶴の話を黙って聞いていた。そして、

「わかった。人には生きがいはあったほうがいいという君の意見には僕も同感だ。

 それで、目覚ましい回復を見せた人を何人も僕自身もみてきた」

 そういって、千鶴の意見を受け入れてくれた。

 千鶴はあからさま、それにほっと一息つくと、中路は真剣な顔から一転、ふっと笑う。

 それに千鶴は、首をかしげる。

「君は変わらないね」

 そう言った中路の顔は優しい。

 彼は人の心を和ませる表情をする人だ。千鶴も自然と笑顔になる。

 それを機に、二人は力を抜いて、千鶴が入れた覚めたお茶を飲みながら、互いの近況についての話も始めた。

 中路は現在、私立大学の講師をしながら、上条が経営する病院の訪問診療を担当しているらしい。 

 それを聞いて千鶴は彼らしいと思った。

 以前、中路の実家は地方で開業医をやっていると言っていた。

 いずれそこを継ぐために、いろいろな症例の患者と接し、多くの経験を重ねていきたいとも。

 そうした思いもあって、中路は医師になってすぐ、地域住民とより密接に関わることのできる千鶴の父の診療所で働き、訪問診療にも精力的に出向いてくれていた。

 そして今もそれを続けている。

 千鶴は医師としての初志を貫く中路を看護婦として尊敬する。

 千鶴もここにいる経緯をかいつまんで、中路に説明する。

 中路からも笑いながら、西野先生に反対されても困っている人をほっとけないのが千鶴ちゃんらしいねと、返ってきた。

 その笑顔にやはり千鶴はほっとする。

 今の時世、女性が働ける職業が増えてきてはいるが、それが世間的に認められているかというとそうではない。

 特に千鶴が高等女学校を卒業した当時、女子が資格を得るため、それより上の学校に行くことはとても珍しかった。

 看護婦になる前から診療所を手伝っていた千鶴でさえ、父から看護婦の学校に行くことを反対された。

 そんな折、新人医師として診療所を手伝ってくれていた中路に、看護婦になりたいのだということを相談したことがあった。

 彼はそれを一も二もなく応援してくれた。

『これからは、女性が積極的に医学に関わっていくようになる。

 女性ならではの気づきや細やかな心配(こころくば)りなんかは、男にはとても真似出来ない。

 僕たち医者は看護婦の支えがなければ、なにもできないよ』

 そう苦笑交じりに告げられた言葉は、千鶴の看護婦になりたいという気持ちを後押ししてくれた。

 その出来事を思い出し、千鶴は温かい気持ちになった。

 
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