幸い(さきはひ)
第五章 ④
ぴしゃり。
桐秋は引き戸が閉められたことに意識を戻し、忙しなく自室に戻る。
早くなっている心臓を落ち着かせようと柱にもたれ、そのままずるずると力なく畳に座りこむ。
——桐秋が話を聞いてしまったのは、偶然だった。
中路の診察が終わった後、桐秋は日課の鯉の餌やりを忘れていたことに気付き、庭に向かった。
石橋の上からぱらぱらと餌を撒いていると、離れの一角から声が聞こえてくる。
中路と千鶴の声だ。
千鶴が換気のためと常に家じゅうの窓と戸を開けているため、風に乗ってわずかながら声が流れてきたのだ。
内心、まだ帰っていなかったのか、と桐秋は思う。
だが、週に一度ああして、千鶴と中路は桐秋の病のことで真剣に話し合っている。
桐秋の為であるのだから仕方がない。
そこにそれ以上の感情はないはずだ。
桐秋は何かの感情を押し込める。
話す内容が気になりながらも、立ち聞くのはよくないと思い、桐秋は手早く餌やりをすませ、その場から去ろうとする。
ところが鯉に与える餌が半分を切った頃、桐秋の耳は思わぬ発言を拾ってしまう。
——中路から千鶴への求婚。
その言葉に桐秋は驚き、餌袋を掴む手が強くなる。
袋の中の麩がバサバサと潰されていく。
橋の下では、鯉が餌を求めパシャパシャと音を立てている。
が、もはや桐秋の耳には届かない。
一点に研ぎ澄まされた耳に入ってくるのは、あの医者の声。
千鶴を人として、看護婦として必要としていること。
千鶴の笑顔に惹かれていること。
橋の上で呆然と立ち尽くす・・・。
ほどなくして、玄関の扉を閉めた音がことさら大きく聞こえ、桐秋はやっとのことで我に返る。
今の己の状況に、急いで部屋に戻らなければと思う。
桐秋は手元の、原型がわからないほど中身が潰された袋を池の上でひっくり返すと、あわてて部屋に引き返した。
*
部屋に入り、うなだれる桐秋の頭に反芻されるのは先の中路の言葉。
『逆境にも負けず、努力するひた向きな姿』
――そうだ。彼女は冷たくあたる桐秋にもめげず、正面から向き合ってくれた。
桐秋が諦めた父にも立ち向かい、まっすぐな想いでもって桐秋の研究を認めさせた。
『一人一人に寄り添う優しい心』
――そうだ。彼女は優しい。
いつも桐秋の言葉に耳を傾け、桐秋を思いやった行動をしてくれる。
おまけに桐秋の幼い頃の突拍子もない約束をも、自分のことのように叶うと応援してくれている。
『立派な看護婦』
――そうだ。彼女は素晴らしい看護婦だ。
彼女は桐秋が少し無理をしていることが分かると、咎めるのではなく、自然に休憩にしませんかと優しく声を掛けてくれる。
桐秋が八つ当たり同然で非難した食事も、普通の食事、いやそれ以上に手間暇のかかる栄養面も考えられた美味しい食事になった。
桐秋の意志を尊重しながらも、主治医と相談しながら、桐秋の体調をしっかりと管理してくれている。
おかげで、独りこっそりと文献をめくっていた頃より、断然、研究は捗っている。
『笑顔』
――そうだ。
あの、夏の太陽のようにまぶしく輝き、春の陽光のように柔らかに降り注ぐ、千鶴の花咲く笑みは、誰の心をも強く惹きつける。
あの笑顔を好ましく思い、好きになるのは当然だ。
みな中路の言ったことに共感できる。
と同時に、それらが自分だけに向けられたものではなかったことにいまさらながら気づく。
閉鎖的なこの離れという空間が桐秋に千鶴を独占させていた。しかし、そこに異物が入ってきた。
立派な庭の悠々と泳ぐ錦鯉の池に、少年が川でとったフナをいれたような。
異な存在であるが、同じ模様の錦が泳ぐ中で、黒光りする野生のそれは、はっと人の目を引く。
そして、その共同体に、「外」という魅力的な存在を認識させるのだ。
胸が焦げつくような、身の内が滾るような、黒く尋常でない熱さの想いが桐秋の中に蠢く。
加えてその感情を増幅させるのは、中路が結婚という未来の約束を描ける若者だということ。
それを当たり前に口に出して言える人間だということ。
自分は未来に限りがある。
千鶴に何かしてあげたいと思っても、何かにつけ制限のある桐秋が可能なことなどほとんどない。
自由に、池の外に連れ出すことは叶わない。
しかし彼はどうだろう。
身体も丈夫で、わずかしか接していないが、性格的にも悪い人間でないことは分かる。
良い医師だということも。また、千鶴が少なからず好感をもっている人物でもある。
一緒になれば、きっと彼女を尊重し、この先の人生を豊かなものにしてくれるだろう。
千鶴を諦める理由として、そう思えば思うほど、
どうにもならない想いの上に、たくさんのどうしようもない理由を重ねれば重ねるほど、
そのどうにもならない想いは、どうしようもない理由を吸って、
落ち葉が積み重なった泥池のように、桐秋の心をどす黒く浸食して苦しめる。
体の病とは違う心の病。
どんな医者でも治せないもの。
自分自身で向き合うしかない。
苦しみを抱えながらも桐秋は本をとる。
千鶴が叶うと信じてくれた約束を果たすために。
これが今の自分にできる、千鶴の想いに報いるたった一つの手段なのだから。
桐秋は引き戸が閉められたことに意識を戻し、忙しなく自室に戻る。
早くなっている心臓を落ち着かせようと柱にもたれ、そのままずるずると力なく畳に座りこむ。
——桐秋が話を聞いてしまったのは、偶然だった。
中路の診察が終わった後、桐秋は日課の鯉の餌やりを忘れていたことに気付き、庭に向かった。
石橋の上からぱらぱらと餌を撒いていると、離れの一角から声が聞こえてくる。
中路と千鶴の声だ。
千鶴が換気のためと常に家じゅうの窓と戸を開けているため、風に乗ってわずかながら声が流れてきたのだ。
内心、まだ帰っていなかったのか、と桐秋は思う。
だが、週に一度ああして、千鶴と中路は桐秋の病のことで真剣に話し合っている。
桐秋の為であるのだから仕方がない。
そこにそれ以上の感情はないはずだ。
桐秋は何かの感情を押し込める。
話す内容が気になりながらも、立ち聞くのはよくないと思い、桐秋は手早く餌やりをすませ、その場から去ろうとする。
ところが鯉に与える餌が半分を切った頃、桐秋の耳は思わぬ発言を拾ってしまう。
——中路から千鶴への求婚。
その言葉に桐秋は驚き、餌袋を掴む手が強くなる。
袋の中の麩がバサバサと潰されていく。
橋の下では、鯉が餌を求めパシャパシャと音を立てている。
が、もはや桐秋の耳には届かない。
一点に研ぎ澄まされた耳に入ってくるのは、あの医者の声。
千鶴を人として、看護婦として必要としていること。
千鶴の笑顔に惹かれていること。
橋の上で呆然と立ち尽くす・・・。
ほどなくして、玄関の扉を閉めた音がことさら大きく聞こえ、桐秋はやっとのことで我に返る。
今の己の状況に、急いで部屋に戻らなければと思う。
桐秋は手元の、原型がわからないほど中身が潰された袋を池の上でひっくり返すと、あわてて部屋に引き返した。
*
部屋に入り、うなだれる桐秋の頭に反芻されるのは先の中路の言葉。
『逆境にも負けず、努力するひた向きな姿』
――そうだ。彼女は冷たくあたる桐秋にもめげず、正面から向き合ってくれた。
桐秋が諦めた父にも立ち向かい、まっすぐな想いでもって桐秋の研究を認めさせた。
『一人一人に寄り添う優しい心』
――そうだ。彼女は優しい。
いつも桐秋の言葉に耳を傾け、桐秋を思いやった行動をしてくれる。
おまけに桐秋の幼い頃の突拍子もない約束をも、自分のことのように叶うと応援してくれている。
『立派な看護婦』
――そうだ。彼女は素晴らしい看護婦だ。
彼女は桐秋が少し無理をしていることが分かると、咎めるのではなく、自然に休憩にしませんかと優しく声を掛けてくれる。
桐秋が八つ当たり同然で非難した食事も、普通の食事、いやそれ以上に手間暇のかかる栄養面も考えられた美味しい食事になった。
桐秋の意志を尊重しながらも、主治医と相談しながら、桐秋の体調をしっかりと管理してくれている。
おかげで、独りこっそりと文献をめくっていた頃より、断然、研究は捗っている。
『笑顔』
――そうだ。
あの、夏の太陽のようにまぶしく輝き、春の陽光のように柔らかに降り注ぐ、千鶴の花咲く笑みは、誰の心をも強く惹きつける。
あの笑顔を好ましく思い、好きになるのは当然だ。
みな中路の言ったことに共感できる。
と同時に、それらが自分だけに向けられたものではなかったことにいまさらながら気づく。
閉鎖的なこの離れという空間が桐秋に千鶴を独占させていた。しかし、そこに異物が入ってきた。
立派な庭の悠々と泳ぐ錦鯉の池に、少年が川でとったフナをいれたような。
異な存在であるが、同じ模様の錦が泳ぐ中で、黒光りする野生のそれは、はっと人の目を引く。
そして、その共同体に、「外」という魅力的な存在を認識させるのだ。
胸が焦げつくような、身の内が滾るような、黒く尋常でない熱さの想いが桐秋の中に蠢く。
加えてその感情を増幅させるのは、中路が結婚という未来の約束を描ける若者だということ。
それを当たり前に口に出して言える人間だということ。
自分は未来に限りがある。
千鶴に何かしてあげたいと思っても、何かにつけ制限のある桐秋が可能なことなどほとんどない。
自由に、池の外に連れ出すことは叶わない。
しかし彼はどうだろう。
身体も丈夫で、わずかしか接していないが、性格的にも悪い人間でないことは分かる。
良い医師だということも。また、千鶴が少なからず好感をもっている人物でもある。
一緒になれば、きっと彼女を尊重し、この先の人生を豊かなものにしてくれるだろう。
千鶴を諦める理由として、そう思えば思うほど、
どうにもならない想いの上に、たくさんのどうしようもない理由を重ねれば重ねるほど、
そのどうにもならない想いは、どうしようもない理由を吸って、
落ち葉が積み重なった泥池のように、桐秋の心をどす黒く浸食して苦しめる。
体の病とは違う心の病。
どんな医者でも治せないもの。
自分自身で向き合うしかない。
苦しみを抱えながらも桐秋は本をとる。
千鶴が叶うと信じてくれた約束を果たすために。
これが今の自分にできる、千鶴の想いに報いるたった一つの手段なのだから。