幸い(さきはひ)
第六章 ③
「私は君が好きだ」
桐秋は気付けばそう口走っていた。
美しいものを見たときに、心が満ちて、はらりと涙が落ちるように。
桐秋はただただ、千鶴が秋の桜を慈しむ婉然たる姿を見て、
胸に満ち満ちていた千鶴への慕わしい想いが、心の源泉からパッと湧き出でてあふれた。
そうしてあふれた想いは、うちにとどめておくことが出来ず、愛を告げる言葉として外界につと、こぼれ落ちた。
桐秋の想いを抑えていた堅牢強固な言い訳の壁。
桜病、命の長さ、千鶴の想い人、患者と看護婦、そんな高くそびえ立った四方の壁さえ、湧き出でた想いは易々と超えていった。
桐秋の突然の告白に千鶴は、大きな瞳がぽろりとこぼれそう落ちそうなほど目を見開き、驚いている。
桐秋は千鶴の目を丸くした顔に、本能に流されていた自分から我に返るも、うちから迸る想いをもう止めることはできない。
丁寧に、丁寧に、言葉を紡ぐ。
「君に想う人がいることは知っている。
それでも、今、君が、秋の桜を愛でている姿を見て、私は、君を、心の底から、美しく、愛しいと想った。
それが今、心のまま、口から漏れ出てしまった。
これは私のエゴだ。自分勝手なわがままだ。
君を困らせているのもわかっている。
私は、近いうち、この世からいなくなる。
それまででいい。
君を、想うことを、許して、、、くれないだろうか。
君に想いまで返して欲しいとは望まない。
ただ、それでも、私の想いを君に知っていて欲しいと思ったんだ。
君の嫌がることはしな・・・」
「いなくなるとおっしゃらないでください」
桐秋の声を遮るように千鶴は叫ぶ。
瞳に涙をいっぱいに溜めた、何かをこらえる顔。
それは男の弱い顔。
女の強い顔。
手を白くなるほどに握りしめ、目に雫を貯めたまま、千鶴は桐秋を睨みつけて告げる。
「冗談でも、この世からいなくなるなんておっしゃらないでください。
桐秋様がいなくなっていいのは、おじいさまになってから、人生の盛りを謳歌してから、たくさんの幸せを全うしてからです。
桐秋様には、まだまだそれが足りません」
頬に幾筋の川を作り、千鶴は訴える。
「ならば、余計に君を想うことを許してくれないだろうか。
君のことを想えたら、私はまだ、生きようと思えるから」
ずるい言い方だ、と桐秋は思う。
こんなことを言えば千鶴が拒めないことを知っている。
自分が死ぬ、と言うことにさえ敏感に反応する千鶴が、拒絶ことができないことが分かっている。
そんな桐秋に返ってきたのは、
「私などで、いいのですか」
想像を超えた答え。
いや、そうあればいいとは思っていた。が、そうであってはいけないとも思った答え。
「私は、人を愛するということが、よく、分かりません。
そのような私が、桐秋様に想っていただいてもよろしいのですか」
「ああ」
「私は、はじめ、桐秋様のお心を察せず、傷つけました。
この先もそうして、桐秋様のことを傷つけることがあるやもしれません。
それでも、よろしいのですか」
「ああ」
「私自身、貴方様への想いを持て余し、桐秋様を困らせることがあるやもしれません。
それでも、いいのですか」
「ああ」
桐秋が、望む以上の言葉。
愛することが分からないと言いながらも、千鶴の紡ぐ言葉は、段々と桐秋を想うものに染められていく。
止めどない涙の流れを作りながら、千鶴は桐秋にいくつもの許しを求める。
——千鶴の、言葉を紡ぐ間隔がぽつり、ぽつり、とあき、途切れたころ、
桐秋はゆっくりと千鶴の顔を下から覗きこみ、穏やかな口調で問いかける。
「もう、君が心配することはないか」
首を傾けて告げられる桐秋の言葉に、千鶴は少し迷うように逡巡する。
しかし、すぐに首を縦にふって、桐秋を見つめた。
迷子になった子どものような目ですがる乙女に、桐秋は柔らかに問う。
「君は、私が嫌いか」
千鶴は、首が取れそうな勢いで、頭を横に振る。
その顔は涙にまみれていて、少し滑稽だ。けれども桐秋は、それがひどく愛おしい。
千鶴は手を胸に押しつけながら桐秋に告げる。
「好きです。
私も桐秋様のことが好きです。
この身から出る感情をなんと言い表していいのかわかりません。
気が触れんほどに、熱くて、苦しくて、切ない。
それらを一言で表すすべを私は、私の中に持ち合わせておりません。
それでも、桐秋様を“好き”という想いは根本にあって、揺るがないのです。
桐秋様がこの世界からいなくなってしまうことがとても恐ろしいのです。
他の誰にも感じたことのないほど大きい、失う恐怖。
これを愛というなら、私は桐秋様を・・・」
『『愛している』』
そこからの言葉は千鶴独りに言わせまいと、桐秋も言葉を合わせる。
その行為に、千鶴はますます童子のように顔を歪ませ、泣き始める。
こらえようとするが、この世で最も清らかな流れは止まず、口はへの字に曲がっている。
千鶴の感情の漏れでた様に、桐秋は胸をかきむしるような激情を抑えきれず、彼女を懐へ抱き入れた。
千鶴も抵抗せず、桐秋の胸にすがりつき、はち切れんばかりの感情を爆発させる。
望陀の美しい玉が落とされる。
思いも掛けない告白に千鶴は戸惑っただろう。
それでも、桐秋の想いを受け入れ、さらには自身の想いを精一杯、桐秋に告げてくれた。
嗚咽交じりに桐秋の胸に顔を埋める千鶴を、桐秋は一層懐深く抱きいれる。
落ち着かせるように、なだらかな背骨に沿って、千鶴の背を優しく撫でる。
——想いが重なったとはいえ、現実はつらいものだ。
桐秋の病気は治療手段がなく、直接ふれて愛し合うことさえ叶わない。
けれども、今は想いが重なったことを喜ぶ。
布越しでも、お互いの生きている体温を感じることができる。
滑らかな絹を隔てても、互いの鼓動《こどう》の音を感じることはできるのだ。
恋の深みを未だ知らぬ萌え出たばかりの恋人達は、薄い境界線越しにふれあうことで生まれる、ささやかな喜びをひしとかみしめながら、しばし幸福の時を過ごすのだった。