幸い(さきはひ)
第十章 ②
※流血描写注意
そこで言葉を切った西野と、黙って聞いていた南山は、当時のことを思い出しているのか、無意識に息を詰める。
「それは北川の馬と伝染病で死んだ馬を入れ替えること。
北川の馬は場所を移したばかりでまだ実験には使われていなかった。
また、私たちが馬の死亡に気づいた時、北川は出張で不在でした」
そのうえ、死んだ馬の中には北川の馬と兄弟の馬もいて、交換したことにも気づかれにくい環境であった。
「結果、北川の馬を使うことで私たちはお産直前に、破傷風菌の抗毒素血清を手に入れることができました。
北川が死んだ馬を発見し、絶望した顔を浮かべているのを見て見ぬふりをしてね。
しかし、因果応報というべきか、私たちの子どもは破傷風にかかり、そのために用意した血清の副作用で亡くなってしまった」
子を守るために、他人を犠牲にした父親たち。
――沈み、口を噤む時間がしばらく続いた後、西野は再び口を開く。
「北川はそれからも馬の入手に動いていたようですが、その頃は私たちの馬も殺した動物の伝染病が猛威を振るい、終ぞ新たな馬を用意することが出来なかった。
行っていた実験は中止せざる得なくなり、北川は失意の中大学を去りました。
・・・それからほどなくして北川本人からとある連絡が入りました。
奥方が亡くなったことを告げるものです。
一切の感情が抜け落ちたような無機質な声だったことを覚えています。
でも、私はその時は北川を不憫に思っただけで、特別何かを気に掛けるということもありませんでした」
娘を失った悲しみをごまかすための忙しい日々の中で、すっかりとそれは頭から消えていた。
「次にそのことを思い出したのは、北川の連絡から数年後のこと。
恐ろしい感染症の流行が起こり、教授の奥様、看護婦として奥様を看病していた私の妻がその病に罹り、この世を去った時。
妻の葬式を終え、抜け殻のように遺影と向き合っていた私は、北川が連絡してきた時に最後にぽつりと言った言葉を俄に、思い出しました」
――桜に妻を連れていかれた。
「なぜ、その折、その言葉が急に思い出されたのかわかりません。
北川から話を聞かされた際は、奥方が桜の季節に亡くなったと聞いていたので、そのようなことを言ったのだろうと気にも留めませんでした。
しかし、妻が死んだ病」
あの頃、まだ桜病とも名付けられていなかった得体の知れない感染症。
体中に桜の花びらのように斑点が現れ、桜が散る頃にあっさりと西野の妻の命を奪っていった病気。
「北川が言っていた言葉と妻を死に至らしめた病が、結びつくような気がしました。
一度そのことが気に掛かると、いてもたってもいられず、私は北川の家を尋ねました。
家に着いて声を掛けても人は出てこず、そろりと引き戸に手を掛けると北川の家の玄関は開いていました」
中へ入り、再度人を呼んだが反応はなかった。
「なんとなく框を上がり、室内を進むと、廊下で強烈な鉄臭い匂いが私の鼻を襲いました。
・・・その家の居間だったと思います。
そこには、血を吐いて倒れた北川の姿と、そんな父を必死に揺り起こそうとしている幼い少女の姿がありました。
・・・北川はすでに死んでいました」
西野が告げた凄惨な現場の様子に、南山は絶句する。
「そして私はその家で知りました。
教授の奥様と私の妻が蝕まれた『桜病』は北川が作った病原菌により引き起こされたものであるということ。
北川は私たちが奪った馬で、自身の妻の『桜病』を救うための抗毒素血清を作ろうとしていたのだということを」
西野から吐かれた同じ音の言葉であるが、違う意味で使われたと思われる言葉に、南山はその言葉の正しい意味を理解出来ない。
――同じ名をもつ病。
――南山が知っている病は北川によって作られた。
――ではそれ以前に、北川の妻が患っていた病とは一体。
その言葉は疑問となり、発せられる。
「桜病とはいったい何なのだ」
そこで言葉を切った西野と、黙って聞いていた南山は、当時のことを思い出しているのか、無意識に息を詰める。
「それは北川の馬と伝染病で死んだ馬を入れ替えること。
北川の馬は場所を移したばかりでまだ実験には使われていなかった。
また、私たちが馬の死亡に気づいた時、北川は出張で不在でした」
そのうえ、死んだ馬の中には北川の馬と兄弟の馬もいて、交換したことにも気づかれにくい環境であった。
「結果、北川の馬を使うことで私たちはお産直前に、破傷風菌の抗毒素血清を手に入れることができました。
北川が死んだ馬を発見し、絶望した顔を浮かべているのを見て見ぬふりをしてね。
しかし、因果応報というべきか、私たちの子どもは破傷風にかかり、そのために用意した血清の副作用で亡くなってしまった」
子を守るために、他人を犠牲にした父親たち。
――沈み、口を噤む時間がしばらく続いた後、西野は再び口を開く。
「北川はそれからも馬の入手に動いていたようですが、その頃は私たちの馬も殺した動物の伝染病が猛威を振るい、終ぞ新たな馬を用意することが出来なかった。
行っていた実験は中止せざる得なくなり、北川は失意の中大学を去りました。
・・・それからほどなくして北川本人からとある連絡が入りました。
奥方が亡くなったことを告げるものです。
一切の感情が抜け落ちたような無機質な声だったことを覚えています。
でも、私はその時は北川を不憫に思っただけで、特別何かを気に掛けるということもありませんでした」
娘を失った悲しみをごまかすための忙しい日々の中で、すっかりとそれは頭から消えていた。
「次にそのことを思い出したのは、北川の連絡から数年後のこと。
恐ろしい感染症の流行が起こり、教授の奥様、看護婦として奥様を看病していた私の妻がその病に罹り、この世を去った時。
妻の葬式を終え、抜け殻のように遺影と向き合っていた私は、北川が連絡してきた時に最後にぽつりと言った言葉を俄に、思い出しました」
――桜に妻を連れていかれた。
「なぜ、その折、その言葉が急に思い出されたのかわかりません。
北川から話を聞かされた際は、奥方が桜の季節に亡くなったと聞いていたので、そのようなことを言ったのだろうと気にも留めませんでした。
しかし、妻が死んだ病」
あの頃、まだ桜病とも名付けられていなかった得体の知れない感染症。
体中に桜の花びらのように斑点が現れ、桜が散る頃にあっさりと西野の妻の命を奪っていった病気。
「北川が言っていた言葉と妻を死に至らしめた病が、結びつくような気がしました。
一度そのことが気に掛かると、いてもたってもいられず、私は北川の家を尋ねました。
家に着いて声を掛けても人は出てこず、そろりと引き戸に手を掛けると北川の家の玄関は開いていました」
中へ入り、再度人を呼んだが反応はなかった。
「なんとなく框を上がり、室内を進むと、廊下で強烈な鉄臭い匂いが私の鼻を襲いました。
・・・その家の居間だったと思います。
そこには、血を吐いて倒れた北川の姿と、そんな父を必死に揺り起こそうとしている幼い少女の姿がありました。
・・・北川はすでに死んでいました」
西野が告げた凄惨な現場の様子に、南山は絶句する。
「そして私はその家で知りました。
教授の奥様と私の妻が蝕まれた『桜病』は北川が作った病原菌により引き起こされたものであるということ。
北川は私たちが奪った馬で、自身の妻の『桜病』を救うための抗毒素血清を作ろうとしていたのだということを」
西野から吐かれた同じ音の言葉であるが、違う意味で使われたと思われる言葉に、南山はその言葉の正しい意味を理解出来ない。
――同じ名をもつ病。
――南山が知っている病は北川によって作られた。
――ではそれ以前に、北川の妻が患っていた病とは一体。
その言葉は疑問となり、発せられる。
「桜病とはいったい何なのだ」