幸い(さきはひ)
第十一章 ⑦
「たくさんの想いが排出されて、最後に心の湖底に白く澄んで残ったのは、最初に抱いていた誓い」
――ただただ純粋に、この人だけはどうしても、なんとしても助けたいという想い
「すべてはそこから始まっていたのに、貴方様と共に時を過ごすほどにそれは自身の欲にまみれた感情に汚され、穢されていった」
――その先は望んではいけないと、
――こんな自分はこの世にいてはいけないと、
――貴方様のためだけに罪深い私は生きているのだと、
――貴方様を愛し、愛されるたびに忘れてしまっていた。
――いつも桐秋から愛をもらうたび、至上の喜びを身にいっぱい、感じていた。
――桐秋が自分といると幸せになれると告げてくれた時、人生で一番心が震えた。
しかし、自分がいなければ、自分さえいなければ、桐秋はもっともっと幸せになれていたのではないかという罪悪感もやはり四六時中身体にまとわりついて離れなかった。
――桐秋の姿の向こうにそう訴えるもう一人の自分がいる。
桐秋と共に季節を感じるたび、桐秋に愛されるたび、いつも迫ってくる。
桐秋に愛されることで目を逸らし向き合ってこなかったもの、自分の罪を自覚した時から己を己たらしめたもの、それがその折になって、真正面に現れたのだ。
「その出来事で私は初心を再確認することが出来ました。
そして、桐秋様の桜病を治療するため、自分の血を利用してもらうことを決心したのです。
私は南山教授に幼い頃に桜病を克服したことを話し、自身に桐秋様の桜病に対する抗体がある可能性をお伝えしました。
南山教授も初めのうちは私の言葉を疑っておられました。
それはそうでしょう、桜病は成人病とされていたのですから。
しかし、あまりにも必死な私の形相と桐秋様の切迫した容体を前に、苦悩しながらも私の血から血清を抽出してくださることを約束してくださいました」
女は俯き、顔は見えない。
「それから、私の体液を貴方様の体に入れることによっておこる副作用がないか確認するため、私は貴方様に肌をさらしました。
そしてそれをより確実なものにするため、わざと指に傷をつけ、貴方様が見咎めるようにも仕向けた。
優しい貴方様なら、苦言を呈しながらも私の血を優しくなめとってくださることが分かっていたから。
ふふ、ほんとうにそうなりましたね。
あまりにも貴方様が、私が想像したとおりの行動をなさるから、私は・・・」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
「一夜明け、貴方様になんの副作用も起きないことを確認し、私の役目は終わりました」
そこで女は目を閉じる。
寸暇の静寂の後、開かれた瞳には情欲をはらんだかすかな炎がゆらりと浮かんでいた。
それは薄紅の花を携える樹木に向けられる。
「いえ、それはただの口実ですね。
体液を貴方様に取り込むだけなら、体なんて交わらせなくても他にもやりようはあった」
女は皮肉を込めた笑みを浮かべる。清純な乙女は一時、世界のことわりすべてをしったかのような成熟した女の表情を浮かべる。
「私が貴方様と愛を交わしたのは、貴方様のすべてが欲しかったから。
私のすべてを貴方様で満たしてほしかったから。
だから、貴方に愛を誓わせ、あまつさえ今にも消えそうな貴方様の命の灯を私に分け与えさせた」
真っ新になったと思っていた心でさえ、桐秋とわずかでも刻を共にすれば、すぐに欲深い愛や恋にまみれてしまう。
決壊し、枯渇してなお、あふれんばかりの感情でたちまちそこは満たされてしまう。
愛されたいと願ってしまう。
叶わなければ本能が死のうとさえしてしまう。
愛を知ったがゆえに、それを乞うようになってしまった。
「ほんとうに自分勝手な女です。
でもそのおかげで私は今、貴方様でいっぱいに満ちた状態で、この世を終えることができる。
幼い頃に見たあの桜の木のように、私の全身には貴方様への想いが巡り、染まっている。
私は幸せものです」
そう微笑みながら、胸の内を目前の花木に告げ終わった時、女はそぞろに昔の記憶を思い出す。
今はもう顔もあまり思い出せぬ父が、血にまみれた中、最期に吐いた言葉。
『愛は人を狂わし、桜は人を死に至らしめる』
幸福な刻を一瞬にして終わらせた呪いの言葉。
何かの詩の一部か。
はたまた、父がこの世を呪った言葉だったのか。
自分の心の奥底に呪詛のように残っていた。
――でも今際、その言葉の意味が理解できる。
――父は、母のことを愛するがあまり、心を狂わせた。
復讐の手段として、桜病という恐ろしい感染症を作り出し、最期は自身もその病に罹り死んでいった。
――娘の自分は桜の木の下で桜の花のような麗しい人に恋をした。
――しかし、自身の桜を関する病ゆえに多くの人の命を奪い、愛する人さえも死の淵に追い込んだ。
――罪の意識に苛まれながら、溺れるほどの恋や愛の感情に苦しみながらも、最後は愛する人を助けたいという想いのために生きた。
――桐秋のことがただただ愛しかったから。
――愛する人には生きていて欲しかった。
――自分も気が触れんばかりの愛を知り、桜に侵され死んでゆく。短い人生ではあったが、幸せだった。・・・後悔はない。
ふっと満ちた足りた表情で女は瞼を下ろす。同時にその体は芯を失い落ちてゆく。
想いに満たされ、桜の花びらに包まれ、自分は別世界に流れゆく。
人生で一番幸せな頃に纏っていた、あの友禅に描かれた花筏のように。
――ただただ純粋に、この人だけはどうしても、なんとしても助けたいという想い
「すべてはそこから始まっていたのに、貴方様と共に時を過ごすほどにそれは自身の欲にまみれた感情に汚され、穢されていった」
――その先は望んではいけないと、
――こんな自分はこの世にいてはいけないと、
――貴方様のためだけに罪深い私は生きているのだと、
――貴方様を愛し、愛されるたびに忘れてしまっていた。
――いつも桐秋から愛をもらうたび、至上の喜びを身にいっぱい、感じていた。
――桐秋が自分といると幸せになれると告げてくれた時、人生で一番心が震えた。
しかし、自分がいなければ、自分さえいなければ、桐秋はもっともっと幸せになれていたのではないかという罪悪感もやはり四六時中身体にまとわりついて離れなかった。
――桐秋の姿の向こうにそう訴えるもう一人の自分がいる。
桐秋と共に季節を感じるたび、桐秋に愛されるたび、いつも迫ってくる。
桐秋に愛されることで目を逸らし向き合ってこなかったもの、自分の罪を自覚した時から己を己たらしめたもの、それがその折になって、真正面に現れたのだ。
「その出来事で私は初心を再確認することが出来ました。
そして、桐秋様の桜病を治療するため、自分の血を利用してもらうことを決心したのです。
私は南山教授に幼い頃に桜病を克服したことを話し、自身に桐秋様の桜病に対する抗体がある可能性をお伝えしました。
南山教授も初めのうちは私の言葉を疑っておられました。
それはそうでしょう、桜病は成人病とされていたのですから。
しかし、あまりにも必死な私の形相と桐秋様の切迫した容体を前に、苦悩しながらも私の血から血清を抽出してくださることを約束してくださいました」
女は俯き、顔は見えない。
「それから、私の体液を貴方様の体に入れることによっておこる副作用がないか確認するため、私は貴方様に肌をさらしました。
そしてそれをより確実なものにするため、わざと指に傷をつけ、貴方様が見咎めるようにも仕向けた。
優しい貴方様なら、苦言を呈しながらも私の血を優しくなめとってくださることが分かっていたから。
ふふ、ほんとうにそうなりましたね。
あまりにも貴方様が、私が想像したとおりの行動をなさるから、私は・・・」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
「一夜明け、貴方様になんの副作用も起きないことを確認し、私の役目は終わりました」
そこで女は目を閉じる。
寸暇の静寂の後、開かれた瞳には情欲をはらんだかすかな炎がゆらりと浮かんでいた。
それは薄紅の花を携える樹木に向けられる。
「いえ、それはただの口実ですね。
体液を貴方様に取り込むだけなら、体なんて交わらせなくても他にもやりようはあった」
女は皮肉を込めた笑みを浮かべる。清純な乙女は一時、世界のことわりすべてをしったかのような成熟した女の表情を浮かべる。
「私が貴方様と愛を交わしたのは、貴方様のすべてが欲しかったから。
私のすべてを貴方様で満たしてほしかったから。
だから、貴方に愛を誓わせ、あまつさえ今にも消えそうな貴方様の命の灯を私に分け与えさせた」
真っ新になったと思っていた心でさえ、桐秋とわずかでも刻を共にすれば、すぐに欲深い愛や恋にまみれてしまう。
決壊し、枯渇してなお、あふれんばかりの感情でたちまちそこは満たされてしまう。
愛されたいと願ってしまう。
叶わなければ本能が死のうとさえしてしまう。
愛を知ったがゆえに、それを乞うようになってしまった。
「ほんとうに自分勝手な女です。
でもそのおかげで私は今、貴方様でいっぱいに満ちた状態で、この世を終えることができる。
幼い頃に見たあの桜の木のように、私の全身には貴方様への想いが巡り、染まっている。
私は幸せものです」
そう微笑みながら、胸の内を目前の花木に告げ終わった時、女はそぞろに昔の記憶を思い出す。
今はもう顔もあまり思い出せぬ父が、血にまみれた中、最期に吐いた言葉。
『愛は人を狂わし、桜は人を死に至らしめる』
幸福な刻を一瞬にして終わらせた呪いの言葉。
何かの詩の一部か。
はたまた、父がこの世を呪った言葉だったのか。
自分の心の奥底に呪詛のように残っていた。
――でも今際、その言葉の意味が理解できる。
――父は、母のことを愛するがあまり、心を狂わせた。
復讐の手段として、桜病という恐ろしい感染症を作り出し、最期は自身もその病に罹り死んでいった。
――娘の自分は桜の木の下で桜の花のような麗しい人に恋をした。
――しかし、自身の桜を関する病ゆえに多くの人の命を奪い、愛する人さえも死の淵に追い込んだ。
――罪の意識に苛まれながら、溺れるほどの恋や愛の感情に苦しみながらも、最後は愛する人を助けたいという想いのために生きた。
――桐秋のことがただただ愛しかったから。
――愛する人には生きていて欲しかった。
――自分も気が触れんばかりの愛を知り、桜に侵され死んでゆく。短い人生ではあったが、幸せだった。・・・後悔はない。
ふっと満ちた足りた表情で女は瞼を下ろす。同時にその体は芯を失い落ちてゆく。
想いに満たされ、桜の花びらに包まれ、自分は別世界に流れゆく。
人生で一番幸せな頃に纏っていた、あの友禅に描かれた花筏のように。