恋はひと匙の魔法から
「西岡さんのことをそういう風に思ってたわけじゃないんですけど。その、お弁当作るまでは私のことなんて全く眼中になしって感じだったので……」
「そりゃあ、部下と恋愛なんてトラブルの元だから、そういう目で見ないようにしてただけだよ」
「じゃ、じゃあ、どうして付き合ってくれたんですか……?」

 すると、西岡は「うーん」と思わせぶりに言葉を濁している。ただ、その唇は綺麗に弧を描いていて、彼がこの状況を愉しんでいることが察せられる。
 西岡はクスリと笑うと、透子の耳元に顔を近づけた。

「透子が一生懸命で可愛くて、我慢できなかっただけ」
 
 その瞬間、透子の体が芯から熱くなった。
 自分を律することのできる西岡が、自身で設けたタブーを冒してまで透子に手を伸ばしてくれたことが、震えるほどに嬉しい。
 
 ずっと叶わぬ恋だと思い込んでいた。思慕の念を抱き、その度にこの想いが報われることはないと自分を戒めてきた。そうして積りに積もった辛苦がようやく昇華され、透子の瞳が自然と潤む。
 西岡の喉がゴクリと物欲しげに動いたことに、透子は気がつかなかった。
 触れ合う距離まで密着していた体を離した西岡は、コホンと仕切り直すように妙に改まった咳払いをした。

「で、週末なんだけどさ。手伝いって何時に終わる?」
「えっ?あ、えーっと……八時くらい、ですかね?」

 バッサリと切り替わった話題についていけず、透子は吃りつつも曖昧に返事をする。
 本当は忘れたネックレスを取りに行くだけだなんて今更言えない。嘘をついた後ろめたさから、透子はスッと視線を泳がせた。

「迎えに行っていい?会いたい」

 目を細めた西岡が透子の肩に垂れた髪の一房を弄ぶように、指先を絡めた。飾り気のない率直な言葉が、透子の心を柔らかく擽る。
 会って、二人きりで、想いを交わしたい。透子も同じ気持ちだった。
 そのことが伝わるようにと、透子はゆっくり頷いた。
 
「夕飯ってお兄さんの店で食べてくる?」
「い、いえ」
「じゃあ一緒に食べよう」
「はい」

 彼へ笑顔を向けたところで、はたと気がついた。
 千晃に今週も店へ手伝いに行くと連絡をしなければ……。
 嘘を真にするための計略を慌てて練り出す。そうこうしている内にタクシーが停車して、運転手が到着を告げた。窓からは馴染み深いアパートの外壁が見える。二人は連れ立ってタクシーを降りた。
 降りる際に注がれた運転手の視線が生温かいことに気がつき、透子はタクシーが去っていくまで顔を上げられなかった。
 
< 111 / 131 >

この作品をシェア

pagetop