恋はひと匙の魔法から
 オートロックの自動ドアを開錠し、三階にある自分の部屋へ辿り着くまでの間、透子はソワソワとしながら西岡の様子を窺い見ていた。

(寄ってく、よね……?何も用意できないけど……。い、いや!西岡さんは気にしないって言ってくれるはず……)

 普段の透子ならおつまみの一つや二つを作ってもてなしただろうが、今日は無理だ。冷蔵庫にはお茶と食パンとベビーチーズくらいしかない。
 申し訳なさが先立ちそうになるが、先程の会話を思い出して透子はそれを振り払った。言葉を尽くして想いを伝えてくれた彼の気持ちを疑うような真似はしたくない。
 だが、エレベーターを降り玄関ドアの前に立ったところで、西岡が「じゃあ俺は帰るよ」と告げるものだから、透子は驚いて顔を上げる。
 視線の先では西岡が少しばかり目を見開いていた。

「どうした?」
「い、いえ。もう帰られるんですね」

 本当に送ってくれただけらしい。
 この後のことを少し期待していただけに、しゅんとして透子はつい思ったことを口にしてしまった。
 
「……もしかして寂しい?」

 己の心情を的確に言い表され、透子はドキリとした。
 自分の気持ちを晒け出すのは少し怖い。けれども誤魔化すことも躊躇われる。
 スカートを握りしめ、唾を飲み込む。オロオロと視線を彷徨わせ、それから透子はこくりと控えめに小さく頷いた。
 瞬間、西岡が相好を崩しその腕に透子を抱き込んだ。ふわりと全身が彼の温もりに包まれ、温かい気持ちになる。

「俺もまだ一緒にいたいよ。上がり込んで同じベッドで眠って、朝まで一緒にいたい。けどそうしたら、明日確実に仕事に行きたくなくなるから、今日は我慢する」

 憂鬱そうな深いため息が頭部にかかり、透子はくつくつと笑い声を噛み殺した。明日は寸分の隙もなく予定が詰め込まれていて、流石に休むことは許されない。
 けれども彼も透子と同じく離れ難い気持ちを抱いていることが嬉しい。透子はくりくりと額を彼のシャツに押し付ける。
 しばらく温もりを分かち合っていたが、ふと西岡が「あ」と声を上げた。

「どうしました?」
「弁当だけどさ、怪我とか体調が悪いとかそういうわけじゃないんだよな?」
「あっ……はい……」

 再び話を蒸し返され、透子は思わず身を強ばらせた。責められていないと分かっていても後ろめたいことには変わりない。
 
「それならよかった。頼んだのは俺だけど、別に透子に無理してほしいわけじゃないから。これからも気が向いた時に作ってくれたら嬉しいけど」
「……はい」

 緊張でピンと張った透子の背を西岡の手が解きほぐすように撫でていく。その手つきはまるで壊れ物を扱うかのように優しい。何度も往復していくうちに動悸が静まっていくのが分かった。大切にされているのだと肌でもって実感し、透子の頬に再び熱が集まってくる。

「じゃあ、おやすみ。また明日」

 色づいた透子の耳にキスを落とし、西岡はそっと身を離した。体を包み込んでいた温もりが消えていくのを名残惜しく思いながら、透子はエレベーターに乗り込む西岡の背中を見送っていた。
< 112 / 131 >

この作品をシェア

pagetop