恋はひと匙の魔法から
 午後七時過ぎ。ようやく仕事にひと段落がついた透子は、背筋を伸ばして凝り固まった肩を解すように回した。
 フェリキタスはフレックス制を導入しているので、定時を過ぎたこの時間もまだまだ平常運転だ。そこかしこでパチパチとキーボードを叩く音が聞こえてくる。
 そろそろ帰ろうと荷物をまとめた透子は周囲でまだ残っていた同僚に挨拶をして席を立つ。
 フロアを出ようとする道すがら、ちょうど他の役員と共に会議室から出てきた西岡と鉢合わせした。

「お疲れ様です。お先に失礼します」

 透子が会釈するのと同じくして、西岡が「あ、」と声を上げ呼び止めた。
 役員会議で何か予定の変更でもあったのだろうか。透子は西岡を仰ぎ見て、言葉の続きを待つ。

「ごめん、透子。二、三分、時間くれないか?」

 西岡が、今出てきたばかりの会議室に目を向けた。この後の予定も特にない透子はすかさず頷き、西岡に続いて会議室へ入る。

「帰るところだったのに悪い」

 十二人掛けの長テーブルの一番端の席に着くやいなや、西岡が申し訳なさそうに眉を下げた。透子は彼の向かいの席に腰を下ろしながら、頭を振る。
 
「いえ、全然大丈夫ですよ。ちょっと待ってくださいね、準備しますので」
「いや……その、業務外のことで、ちょっと相談があって……」

 西岡の言葉にトートバッグからタブレットを取り出そうとした透子の手が止まる。

 相談。しかも業務外。内容に皆目見当もつかない。
 仕事中はそれなりに会話をするが、どれも業務の延長であることが殆どである。
 プライベートというと、関わりは皆無だ。連絡先は勿論知らないし、断られるのを恐れて個人的に飲みに誘ったことすらない。
 二年片想いをしてこの体たらく。情けないことこの上ない。
 動揺するあまり、つい思考が飛躍してしまいそうになるのを踏み止まり、透子は目の前の西岡に意識を戻した。
 余程言いづらいのか、西岡の目は泳いでいる。よく見てみると、耳の先がほんのり赤い。その様子に、透子の脳裏に一つの可能性がよぎった。
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