恋はひと匙の魔法から
 時刻は午後八時を過ぎた頃。ここ最近は内勤が多かったこともあり、久しぶりに履いた客先用の七センチヒールのせいで、透子の足は悲鳴を上げ始めていた。

(今日はラーメンでも食べて帰ろうかなー)

 人混みに揉まれた疲労感もあり、とても今から夕食を作る気にはなれない。
 円形の豪奢なシャンデリアに照らされたロビーを歩きながらそんなことを考えていると、半歩前を歩く西岡が足を止めた。

「どうしました?」
「いや……雨が降ってるみたいだ」

 西岡の視線は、フロント横の待合スペースの全面窓に注がれている。釣られて見れば、ライトアップされた日本庭園が雨に濡れているのがうっすらと分かる。
 それに、エントランス付近はカンファレンス参加者と思しきスーツ姿の人々でやけに混雑しており、土砂降りなんて単語もちらほら聞こえてくる。
 夕方まで晴れていたこともあり、傘を持っていない人間が多いのだろう。
 
 西岡に断りを入れ、人を掻い潜って入口の自動扉の元へ行く。
 扉が開くと同時に、ザーッと話し声すら掻き消されるような雨音が耳に飛び込んできた。
 かなりの大雨だ。一分でも傘を差さずに外を歩いたら、下着までぐっしょり濡れそうである。透子はげんなりして踵を返した。
 幸いなことに、透子は常々折り畳み傘を持ち歩いている。
 西岡の元へ戻り、雨足が強いことを告げると、鞄の中からそれを取り出して彼に差し出す。先程の反応からして、西岡は傘を持っていないに違いない。

「西岡さん、傘は持っていらっしゃいますか?もしお持ちでなかったら、お使いください」

 コンビニで買った柄のない紺色の傘は、男性が差しても何ら違和感はない。
 しかし、西岡は眉間に皺を寄せるだけでそれを受け取ろうとしなかった。

「持ってないけど……俺が借りたら透子が濡れるだろ」
「私はフロントで借りれないか聞いてみるので大丈夫ですよ」

 この大雨なので恐らく全て貸出済みとなっていると思うが、それよりも上司を濡れ鼠にさせる方が透子にとっては大問題だった。
 だが、西岡はなおも受け取ろうとせず、それどころか傘を押し返してくる。

「そんな物、もうとっくに無くなってるだろ。俺はいいから、透子が使え」
「いや、そんなこと言ってもすごい雨ですよ。私は本当に大丈夫ですので」
「――――――よし、分かった。とりあえず俺の家まで一緒に行こう」
「……えっ?」

 透子はギョッとして、西岡を見上げる。
 すると、透子の表情の意味を悟った西岡が焦ったように首を横に振った。

「違う!変な意味じゃない。俺の家、ここから歩いて五分くらいなんだ」
「そ、そうなんですね……」
「そう。だから悪いけど、そこまで来てくれないか?そうしたら二人とも濡れないから」

 首の辺りに手を当てどこか気まずそうに話す西岡へ、透子はこくこくと頷いた。家と聞いて変に動揺してしまった自分が恥ずかしい。
 
 外へ出て、厚い雲に覆われた夜空を仰ぐ。雨は依然として弱まる気配がない。
 透子が傘を開くと、サッと横からすぐさま奪われる。傘を手にした西岡は、透子が取り返そうと声を上げる前に歩き出してしまった。透子は慌ててその後を追う。
「すみません、傘を持っていただいて」
「透子が持ったら俺が屈まなきゃいけないから」

 西岡は肩をすくめて笑った。
 百五十八センチの透子が見上げるくらいだ。西岡は百八十センチ近くあるだろう。
 確かに透子が腕を目一杯伸ばして傘を差すよりは、西岡が差した方が合理的で尚且つ安全だ。大人しく彼の好意に甘えることにした。
 
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