恋はひと匙の魔法から
 きっと、気に病んでいる様子の透子を思い遣って、上司として優しい言葉を掛けてくれたのだ。そこに特別な感情がないことは分かっている。
 西岡の言葉が透子にとってどれほど重要な意味を持つのか、彼は想像すらしていないだろう。
 
 それでも、透子のために憤ってくれた彼の優しさが嬉しい。今後また、あの心ないの言葉を反芻して傷つきそうになっても、きっと彼の言葉が透子の心を守ってくれる。

「ありがとうございます……」
 
 透子は顔を綻ばせ、西岡へ微笑みかけた。
 もしかしたらその瞳には、いつもはひた隠しにしている彼への好意が如実に映し出されてしまっていたのかもしれない。
 西岡は一瞬だけ目を瞠り、それから僅かに口角を上げて透子の頭部に手を置いた。

 
 傘の中に静寂が落ちる。
 バチバチと大粒の雨が傘生地を打ち付けているが、その音は不思議とどこか遠くで鳴っているように聞こえた。
 道幅の広い道路と交わる三叉路に出たところで、西岡は足を止めた。

「あれが俺の家」

 道路の向こう側に建つ低層マンションを指差した。体感にして五分も歩いていない。
 カンファレンスが行われたシティホテル、そしてフェリキタスが入居するオフィスビルの最寄駅は、都内有数のターミナル駅だ。このマンションはその駅からも恐らくそう遠くない。
 必然的に会社も徒歩圏内。
 敢えて言葉にせずとも、めちゃくちゃ良い立地であるのは間違いない。
 
 そんな素晴らしい立地にある高級マンションは、エントランスも圧巻だった。
 石畳の広い車寄せの先にある木目調の自動ドアをくぐり、オートロックのガラス扉を開錠すると、温かみのある橙色の光で照らされたラウンジがあった。
 そこにはモダンなデザインのアームチェアが二脚、向かい合うように配置されているのが見える。
 それだけでも充分におしゃれ空間を構成していたが、奥にはさらに革張りのソファと高級そうな一枚板のローテーブルが置かれ、壁には大型テレビが掛けられていた。果たして、こんな場所でテレビを見る猛者はいるんだろうか……?
 
 しげしげと周囲を物珍しげに眺めていたところで、西岡が「ここで待ってて」と言い残し、ラウンジの手前に位置するエレベーターホールへ消えて行った。
 残された透子はもう一度辺りを見渡し、とりあえず一番近くにあったアームチェアに腰掛けることにした。
 
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