恋はひと匙の魔法から
 誰もいないラウンジはシンと静まり返っており、透子の履くハイヒールの靴音がやけに大きく響いた。
 雨の中を歩いている時はあまり意識していなかったが、足を僅かに動かす度に、靴の内側からたっぷりと吸い込んだ雨水が滲み出てくる。気持ち悪いことこの上ない。
 帰ったらまずは靴を乾かさないといけない。面倒だなぁ、とげんなりしていたところで、ふと疑問が湧き起こる。

(そういえば、なんで待ってろって言ったんだろう?)

 西岡の家に無事着いたのだから、透子はもうお役御免だ。エントランスでお別れすれば問題ないはずだが――
 釈然としないまま、雨粒が打ちつけるガラス窓をぼうっと眺めた。
 そうしている内に、カツカツと速い歩調の靴音がラウンジに反響し耳に飛び込んでくる。振り返ると、スーツのジャケットを脱ぎシャツ姿となった西岡がタオルを手にこちらへ向かってくる。

「待たせてごめん。これ、濡れてるだろうから使って」

 タオルを差し出され、透子はありがたくジャケットと鞄に付着した水分を拭った。
 最中に彼が「透子って家どこ?」と尋ねてくるので、深く考えずに自分の最寄り駅を告げる。

「ああ、近いな。車で送るよ」

 とんでもない言葉が聞こえ、透子は首と手をブンブンと勢いよく横に振った。
 そのための待ち時間だったのか!

「いや!いやいや!大丈夫です!電車で帰れますから!」
「いいから、ほら」

 西岡が有無を言わさず歩き出してしまうものだから、またも透子は押し切られる形で彼の背を追う羽目になった。

 
 地下駐車場には車がずらりと並んでいた。どれも、車に疎い透子でも分かる高級車メーカーのエンブレムを付けている。
 西岡の車は国産自動車メーカーが展開するプレミアムブランドの物で、黒のSUVだった。
 促されるまま助手席の扉を開けて、透子は恐る恐る乗り込んだ。運転席に座った西岡は、透子がシートベルトを装着したのを見届けると早速車を発進させる。
 
 透子の隣で、慣れた手つきでハンドルを操作する西岡。捲ったドレスシャツの袖口から覗くしなやかな腕の筋肉、そして真剣な面差しで前を見据える横顔に自然と視線が吸い寄せられていく。
 チラチラと盗み見ていると、隣から突然「そういえば」と問いかけられる。
 透子は驚いて肩をびくりと震わせた。悪いことはしていないが、盗み見ていただけにやましさはある。
 そんな透子の様子を見て首を傾げたものの、西岡はそのまま話を続ける。

「透子の行く予定のラーメン屋ってどこらへん?」

 カーナビを覗き込むと、いつの間にか透子の住む最寄り駅付近に到着していた。透子は地図上で位置を指し示す。わざわざそこまで送ってくれるのだろうか。それとも――

「俺も一緒に行っていい?透子のおすすめの店なら美味そうだし」
「は、はい。それはもちろん」

 今まさに頭で想像していた通りの展開になったことに少し驚きつつ、透子は頷いた。
 それにしても、食関連に対する透子への信頼の厚さがすごい。
 
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