恋はひと匙の魔法から
「こんばんは」

 澄んだ美声が夜の住宅街に響く。その人物の顔を認めた透子は、信じられない思いで目を見開いた。

「三浦さん、ですよね?遼太の秘書の」

 工藤英美里が、そこにいた。
 呆然と足を止めた透子へ、英美里は夜とは思えぬほどきらきらしい笑みを向ける。

「こんな時間までお仕事ですか?大変ですね、お疲れ様です。遼太なら部屋にいますから。何ならご案内しましょうか?」
「……い、いえ……。近くを通りかかった、だけですので……」

 震える声でそう答えるのが精一杯だった。優雅に微笑む英美里を直視できず透子は俯く。頭をギュッと鷲掴みにされたような痛みが走り、足元のアスファルトがぐにゃりと歪んで見えた。

「そうですか?それでは失礼しますね」
 
 会釈した英美里が透子の横をすり抜けていく。カツカツとアスファルトを打つヒール音が遠ざかって消えゆくまで、透子は指一つ動かせずに立ちすくんでいた。

「…………なんで……」

 唇を戦慄かせ絞り出した声は、かき消えそうなほど小さかった。

(なんであのひとがここにいるの?どうして西岡さんが家にいるって知ってるの?)

 そしてその理由を正しく理解した瞬間、透子の目頭がカッと熱を持った。

 彼は、透子ではなく英美里を選んだのだ――
 
 残酷な現実を眼前に突きつけられ、透子の心はポキリと折れた。
 視界がだんだんとぼやけていき、眦からハラハラと雫がこぼれ出す。嗚咽を押し殺し、次々に込み上げ頬を濡らしていく涙を拭いながら、透子は覚束ない足取りで再び歩き出した。
 
 別れを告げられると分かっていて彼の元へ行けるほど、透子は強くなかった。
 かといって、来た道を戻れば英美里に出会してしまうかもしれない。
 西岡の住むマンションを通り過ぎ、行くあてもなくトボトボと歩いていく。
 するとしばらくして、ライトアップされた御影石の銘板が目に入った。
 そこには、二ヶ月前にIT産業カンファレンスが行われたホテルの名前が刻まれている。顔を上げると、見覚えのあるエントランスが夜霧の向こうに見えた。
 夜も深くなりつつあり、エントランスはドアマンだけが凛と佇んでいて、静寂に包まれている。
 
< 80 / 131 >

この作品をシェア

pagetop