恋はひと匙の魔法から
 あの日はすごい土砂降りで、エントランスにも人が大勢いて溢れかえっていた。傘が一本しかなく西岡も透子も譲らず、結局二人で一つの傘を差して帰ったことを思い出す。
 相合傘なんて透子には初めての経験で始終ドキドキしていた。話の流れで元彼にフラれたことを話すと最低だと怒ってくれて。透子は何も悪くないと慰めてくれたことが嬉しかった。あの時抱いた感情は、きっとこの先も透子の胸で息づいていくのだろうと確信めいたことを思ったりもした。
 
 その後一緒に行ったラーメン屋では、彼はずっと微笑ましそうに透子の食べる姿を眺めていた。しばらく経ってから、どうしてそんなに見ていたのかと聞いてみたら、美味しそうに食べる姿が可愛かったからだと告げられたのだから驚いた。面映さからしばらく彼の顔を直視できなかったのは記憶に新しい。
 彼は透子が何かを食べる姿をいつも可愛い可愛いと慈しんでくれていた。最近は食事の時にも人の目が気にならなくなってきていて――

 彼の言葉、彼の声、彼の仕草がつぶさに思い起こされ、胸が締め付けられるように痛んだ。
 全てが嘘だったとは思わない。恐らく、彼は透子のことも真剣に愛してくれていた。
 
 ただ、英美里へ向けるものとは熱量が違ったのかもしれない。
 あんなに美人な女性から「まだ貴方のことが好きなの」と迫られたら、誰だって靡いてしまうだろう。きっと彼も――
 もしかしたら透子の存在は、英美里と別れた後の傷を癒す、身代わりのようなものだったのかもしれない。
 
 また目頭が熱くなり、止まるところを知らない涙を指の側面で拭った。擦りすぎて瞼が少し腫れぼったくなっている。メイクがよれて滲んでいるであろう顔面はきっと酷い有様だ。
 グスグスと鼻を啜りながら、透子はホテルの車止めで客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。心と体が疲れ果てて、一刻も早く家に帰りたい。
 震える声で運転手に行き先を告げた透子は、これ以上涙がこぼれ落ちないよう唇をきつく噛み締めた。
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