悪戯な魔法使い


 急激に視界が霞んでいく最中、等間隔に並ぶ生徒達の背中の隙間から、波打つ金色の髪がふと目に入った。
 髪の持ち主はジェシカだ。彼女は最前列の席からこちらを振り返ってほくそ笑んでいた。なぜそんな顔をしているのか。エリーが疑問に思うよりも先に、くるりと向き直って真正面に立つナルムクツェに視線を送り始める。あの視線は、お昼に食べた出来立てのコンソメスープよりも熱そうだ。ナルムクツェには、まったく気にしている素振りはないが。

(わたしもああやって堂々と先生にアピールできたらいいのにな……。そんなこと……もう、できない……や、)

 まだ自分の立場や外見などを気にしていなかった幼い頃のエリーは、ナルムクツェと顔を合わせれば当たり前のように甘えていた。ナルムクツェの気持ちも考えず、いつも素直に自分の気持ちをぶつけていた。ナルムクツェからすれば迷惑だったかもしれないが、エリーにとっては幸せで楽しい日々だった。できることならあの頃に戻りたい。そう願っていると、突然、青く澄んだ美しい池が目の前に広がった。隣にはあどけなくも穏やかな顔をした、いつかのナルムクツェが立っている。

 だが懐かしむ暇もなく、次の瞬間にはナルムクツェの姿は消え、美しい池がみるみるうちに黒く染まっていく。池から無数の手が勢いよく飛び出し、エリーの身体を這うようにして絡みついた。絡みついた無数の手はやたらと重くヌメついていて、池の中に引き摺り込もうと強い力で身体を引っ張ってくる。手足をバタつかせて抵抗するが、池からまたいくつも手が伸びて来て重みを増し、引っ張る力が強くなるだけだった。

(や、やだ……!)

 尻もちをついたエリーは、どろりとした漆黒の池に両足を絡め取られた。徐々に身体も飲み込まれていき、泥のような塊の重みで完全に身動きが取れなくなる。辛うじてまだ池から出ている頭を振ろうとしたが、それさえも無数の手に覆われて阻まれた。身体の自由が奪われ、恐怖でどうにかなってしまいそうなのに、ここに来て今までで一番の睡魔がエリーを襲う。吸い取られるように全身から力が抜けていった。

(もう、わたし、だめだ……)

 バン、と大きな音が鼓膜を震わせ、エリーはぱちりと目を覚ました。何事かと辺りを見回すと、こちらを向いた生徒達の青い顔が真っ先に目に飛び込んでくる。次に手元を見ると机に開いたノートの上には、エリーのものではない、長い指がスッと伸びた美しい手が広げられていた。どうやら大きな音の正体は、この手がノートを叩いた音らしい。
 嗅ぎ慣れた甘すぎないメロウな香りが鼻を掠める。鈍い光沢を帯びた仕立ての良いスーツ、ちらりと揺れる一筋の長い黒髪。エリーは背筋が凍る思いで顔を上げた。

「フォーサイス、俺の講義で寝るとはいい度胸だな。それだけ余裕があるならこの後、執務室に来い。今日の講義でやったことを見せてみろ」
 
 威圧的で凛然とした深い青の瞳がエリーを間近で見下ろしている。神々しいまでに整った無表情のナルムクツェを前に、エリーは声も出せずに仰け反った。
 講義を終えるチャイムが無情にも鳴り響く。廊下から授業を終えた生徒達の明るい声が聞こえてくるが、講義室内は墓場のように静かだった。

(わたし……詰んだ……)

 重い身体を引き摺って席を立つと、生徒達は死人を見るような目つきでエリーを見た。エリーも死人になった気分で、ナルムクツェの後ろを付いて歩く。
 しかし、エリーは気が付かなかった。憐れな目を向けてくる大勢の中に一人、睨みつけるような視線を送ってくる生徒がいたことを。












 

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