悪戯な魔法使い
ナルムクツェが執務室のドアを開けると、ジャスミンの香りがふわりと鼻をくすぐった。ジャスミンの香りは魔除けの効果があるらしい。ナルムクツェの邸でもよく嗅いだ匂いだ。
二人で真っ暗な執務室に入ると、ナルムクツェはパチンと指を鳴らした。上品なダークブラウンの執務机に置かれた、小さなモザイクランプに明かりが灯る。続けてランプのそばにあったろうそくがチリチリと燃え、ほんのりとミントの香りを漂わせた。ミントの効果は浄化だ。普段、使わないろうそくになぜ火を付けたのかエリーはふと疑問に思うも、そんなことは今はどうでもいいと考え直す。まだ薄暗いままの執務室で、ナルムクツェはエリーにソファに座るよう促した。
執務机の前に置かれたラグジュアリーな革張りのソファは、座り心地が良くどんよりとした眠気が蘇る。エリーは慌てて、ぶんぶんと首を横に振った。今からナルムクツェの説教を食らうのだ。再びここで眠りこけてしまえば、後でどんなことになるか想像しただけで恐ろしい。ナルムクツェに叱られて泣きじゃくる生徒を時折、見かけていたエリーは、同じようになりたくはないと思う一心で少しずつ下りてくる瞼に抗った。
「先にその呪いを解くか。横になれ、寝るなよ」
意外にもナルムクツェの口調は柔らかかった。エリーの前で床に片膝を付き、ソファをぽんぽんと叩く。しかしエリーはそれには従わず、目を丸くさせるに留まった。
「呪い?」
「そうだ、おまえは夢魔に取り憑かれている」
「夢魔……」
「恐らく、夢を食べて悪夢に変える類の夢魔だろう。さっきは危なかったな。もう少しで夢の中に引きずり込まれるところだった」
「もしかして助けてくれたんですか……? でも引きずり込まれるって、どういう……?」
「寝たら二度と目が覚めない」
「え、それって死ぬってことですか?」
「そうだな。ここで寝てしまっても解呪できないことはないが、かなり厄介になる。だから今は俺の言う通りにしてくれ。身体のどこに夢魔が潜んでいるのか調べたい」
「分かりました……」
足を下ろしたまま、エリーがソファに横になったのを確認すると、ナルムクツェはすぐに杖を取り出した。短く省略させた呪文を唱え、杖によって素早く床に魔法陣が描かれていく。呪文を省略させるのも魔法陣が描かれるスピードが早いのも、ナルムクツェの豊富な魔力と高度な技術があればこそだ。
ナルムクツェの前に、古代語と思われる文字で書かれた文章が数行、浮かび上がる。どんな内容なのかエリーにはまったく分からなかったが、ナルムクツェは理解したのか杖を振ってあっという間に魔法陣ごと消した。
「夢魔はおまえの背中に取り憑いているらしい。背中に直接魔法陣を描いて夢魔を取り除く」
「背中に魔法陣を……」
「今から上に着ているものを全部脱いでくれ。悪いな、俺は奥の仮眠室にいるから準備ができたら呼べよ」
『悪いな』という言葉の割に、至って淡々とした口調だ。エリーは、立ち上がろうとするナルムクツェの腕を急いで掴み引き止めた。深い青の瞳が冷たくエリーを見下ろす。
「ふ、服を脱ぐんですか……?」
「背中に直接魔法陣を描くからな」
「そんなの嫌です。絶対、いや! 他に方法はないんですか?」
「ない」
ナルムクツェは眉を潜め、エリーの腕を素っ気なく振り払った。
「そんな……!」
「自分の置かれてる状況が分かってないのか? 次はもっときつい眠気が襲ってくる。死ぬぞ」
「でも……」
「つべこべ言う暇があったら早く服を脱げ。安心しろ、ガキには興味ない」
ナルムクツェは、これ以上聞く気はないと言うようにエリーに背中を向けて立ち上がると、今度こそ奥の仮眠室へ行ってしまった。エリーの手が虚しく宙を切る。
(そんな言い方しなくたっていいじゃない。子どもなのは分かってるもん。わたしに興味がないのだって……分かってるつもりなのに)
エリーは起き上がり、しくしくと痛む胸に気付かないふりをしてブラウスのボタンに手を伸ばした。