婚約破棄は幸せな溺愛生活の始まりでした!?〜冷遇された令嬢は、隣国の王子に見初められて幸せを取り戻します〜
逆転劇
振り返ると、そこには顔を真っ青にしたグルーがいた。その顔からは、さっきまでの威勢はまるでなくなっている。
「お、お前がどうしてもと言うなら、婚約破棄を撤回してやってもいい」
アナスタシアは目を見張る。
「……撤回、ですか?」
今さら、なにを言うのだろう。自分から言っておいて、撤回とは呆れた話だ。
「でも……」
アナスタシアが口を開くと、グルーは苛立ったように声を張る。
「だから、お前が謝るなら許してやると言っているんだ!」
グルーの傲慢な轟が落ちた。
「私が、謝れば……ですか」
そもそもアナスタシアは、グルーになにかしただろうか。
たしかにこのような格好でパーティーに出席したことは悪かった。でも、教えてくれなかったのはグルーの方だ。メイドにグルーが呼んでいるからホールに行けと言われ、急いで駆けつけたらパーティーが行われていた。
アナスタシアを四面楚歌にするためにメイドに嫌がらせをするよう指示したのもグルーだろう。わざと、公の場でアナスタシアに恥をかかせるために。
これがこれからも続くなんて考えただけで、吐きそうになる。アナスタシアは強い眼差しでグルーを見据えた。
「……いえ。私は、婚約破棄を受け入れます」
グルーは目を見張り、激高した。
「アナスタシア……!? なにを言っている! お前は俺がいなければなにもできないだろう! それなのに、この俺から離れようというのか!」
「……今までのことは感謝しております。ですので、今までは恩返しのためだと思って我慢してきましたが……」
でももう、うんざりだ。酷い言葉を投げつけられるのも、ストレス発散に殴られ、罵られるのも。
「ごめんなさい……もう無理です」
グルーとの婚約は、当時のアナスタシアは素晴らしいものだと信じて疑わなかった。どんなに辛くても、この人は自分を助けてくれたのだから、もしこの婚約がなかったら、きっともっと辛い思いをしていたのだからと。
そう言い聞かせて、心を殺してきた。
でも、本当にそうだろうか。
結果、身寄りのない没落貴族の娘を婚約者としたグルーは、なんて心の広い王子なのかと国民から多大な人気と信頼を得た。
アナスタシアはこの婚約によってなにを得ただろう。
「アナスタシア、お前……これまで俺がどんなによくしてやったか忘れたのか!」
「なにをしてくれたんですか!」
アナスタシアが言い返す。
「私はこれまで、王宮の中でずっとひどい扱いを受けてきました。それでも耐えてきたのは……あなたへの恩があったからです。私を拾ってくれた恩があったから!」
「なんだと……貴様ァッ!」
グルーがとうとう声を荒らげた。カツカツと靴底を鳴らして、アナスタシアめがけて向かってくる。アナスタシアに向かって、思い切り手を振り上げた。ホール内に小さな悲鳴が沸き起こった。
(殴られる……!)
アナスタシアは青ざめ、目をぎゅっと瞑った。
「本当にすぐ手を上げるんですね」
アーサーはひどく不快そうな顔をして、喚くグルーを押さえつけると、懐に手を入れた。中からなにかを取り出し―――。
「……おや? おやおや? これはなんでしょう」
アーサーの涼し気な声が響く。アーサーはグルーを放り出すと、アナスタシアをグルーから守るように立ち、手をさっと振り上げた。翳された彼の手から、大量の写真がばら撒かれた。
ちらりと見えたそれは、どうやらどこかのご令嬢との浮気現場のようだった。
しかし、驚くことはない。グルーがいろんな女性と関係を持っているのは、知っていたことだ。
「なっ……貴様!」
とうとうグルーは、目の前の麗しき青年――アーサーを敵認定したらしい。ものすごい形相で、グルーはアーサーを睨む。アーサーは負けじとグルーを睨み返し、冷ややかに言った。
「私は彼女を助けに来ました。このままでは、彼女は死んでしまう。あなたに殺されてしまうと思ったので」
アーサーが冷ややかに告げる。
「コイツは! 俺の婚約者だ! 俺がどうしようと勝手だろう! 部外者が口を挟むな!!」
「部外者? それはあなたの方では?」
「なにぃ?」
「自分から婚約破棄を申し出たのはあなたでしょう、グルー王子」
グルーは顔を真っ赤にして、アーサーを睨みつける。
「冗談だ! こんなのは、ただのパーティーの余興だ! 本気にするなんて馬鹿げてる!」
「随分と趣味の悪い余興をお考えになられたようで……まだ彼女を手放さないというのなら、もっと際どい写真を皆様にお見せしてもいいのですよ?」
「なっ……」
「例えば……そうですね。彼女を物置に閉じ込めているところとか。殴っているところとか、それから……」
グルーは顔を引き攣らせ、アーサーに詰め寄った。
「貴様ァッ!」
グルーが拳を振りかざしたその瞬間。これまでにないいっそう冷ややかな声で、アーサーが言った。
「いい加減にしろよ。クソ王子が」
「なっ……」
突然ホールに響いた辛辣な言葉に、グルーは黙り込む。周りにいた来賓たちも、息を呑んだ。
我に返ったグルーは、目をひん剥いた。
「貴様! なんという口を……! 俺を侮辱するということは、我が国を侮辱していることにほかならない。この者を捕らえろ! このような侮辱は、絶対に許してはならない!」
グルーは悔しげに歯をかりかりと慣らして、アーサーを捕らえるよう騎士たちに指示を出す。
しかし、グルーの言葉に賛同する者はもはやいなかった。
困惑気味ながらも、誰もがグルーへ冷たい視線を送っていた。グルーは静まり返ったホール内を見て、そのことにようやく気づく。
「なんだその目は……貴様ら、俺の言うことを無視するのか! 次期国王の言うことを聞かぬというのか……!?」
「聞いているではありませんか」
「なに?」
アーサーが一歩前に歩み出る。
「破棄したかったのでしょう? 恥をかかせたかったのでしょう?」
「それはっ……違うっ!」
「違う? なにが違うのです? あぁ……残念。恥をかいたのはあなたの方でしたね」
アーサーの挑発するような微笑みに、グルーは獣のような唸り声を上げる。
「これまでさんざんアナスタシアに国王の介護をさせておいて、身だしなみを整えるだけの自由すらも与えずに監禁して、終いにはこの騒動……とても一国を担う人間の所業とは思えません。彼女のことは私がしっかりと守るのでご安心ください」
「なっ……」
「ご自分で婚約破棄されたのですから、二言はありませんよね? グルー王子?」
「ぐっ……」
突然豹変したアーサーに、グルーはあからさまに戸惑っていた。