スノードロップと紫苑の花
【煉獄〜プルガトリウム〜】
🔥
「ソルトー様」
「なんじゃ?」
「この魂なんですが、身元がわかりません」
「身元がわからない?」
「はい。どうやら家族も親族もいないようで、誰の魂か判明できない状況です」
「時間がかかりそうじゃな」
「そうですね」
「ただ身元がわからないとどこに送るべきかわからないからのぅ」
「お調べいたします」
「いつもすまんな」
「お任せください」
「わかるまでは保冷室に保管しておくから、分かり次第身体を顕現させよう」
「承知致しました」
☕️
あの日俺は誰かに刺された……はずだが、記憶が曖昧でちゃんと思い出せない。
思い出そうとすると激しい頭痛がする。
ここはどこだろう?
洞窟の中だろうか?
それにしては天井が見えないくらい高いし、天気が澄んでいる。
となるとここは黄泉の国?
いや、そんなものはないはず。
宇宙のように広く暗いこの空間にポツンとある踊り場に立ちながら状況を理解しようとするが全然しっくりこない。
何かを叩く音や何かが燃える音が微かに聞こえてくる。
右上の方を見ると、そこには長い階段がある。何かに形容するなら万里の長城といったところだろうか。
永遠に続くのではないかというくらい先の見えない階段の果てには一体何があるのだろうか?
左側を見下ろすと段差の激しい階段があり、遥か下から深紅に燃える光のようなものが見えるが、少し顔を覗かせただけで熱さが肌を燃やしにかかってくる。
踏み外して落っこちたら一瞬にして燃え尽きてしまいそうな温度だ。
正面には離れ小島のようなものがいくつか見える。
しかしそこに行くことができるのは空を飛べるものか魔法使いだけだろう。
走り幅跳びの世界記録保持者でも全く届かないくらい遠くにある。
仮に渡れたとして、その先には一体何があるのだろうか?
光の当たらない、道の見えないその先はブラックホールに似た暗闇の世界なのか、それとも行き止まりなのか見当もつかなかった。
そして背後にはこの空間にそぐわない威圧感と圧迫感の大きな壁が聳え立っていた。
巨大なダイナマイトでも破壊することができないような高い壁。
行き先は2つ。
果てなく続く階段を登っていくのか、それとも燃えるような熱さに耐えながら降っていくのか。
壁に寄りかかり、腕を組みながら考えていると、どこからともなく嗄れた声が聞こえてきた。
「ここは、プルガトリウムじゃ」
声の方を向くと、白衣を着た老人が両腕を後ろに組みながら立っていた。
その老人は髪も髭も白く、その長さで目が隠れていてよく見えない。
ってかいつ現れた。
さっきまで人なんていなかったぞ。
「プルガトリウムってことは煉獄?」
「そうじゃ」
「ってことは爺さん元鬼殺隊?」
「鬼殺隊?何の話じゃ?」
「いえ、何でもないです」
変な空気に耐え切れず敬語になってしまった。
そういえばこの前煉獄について書かれている本を読んだことがある。
『人は何かしらの罪を背負って生きていく。例外を抜きにして。死後はその罪を償わなければならない。この煉獄の地で肉体を焼き、魂を浄化することで真の天国へと行ける』
胡散臭い内容だったから逆に覚えていたが、まさかな。
「死者の魂を浄化するために送られてくる場所だろ?」
「簡単に言うとそういうことじゃ」
待てよ。本当にここが煉獄なら、俺はすでに死んでいる?
「おい、爺さん」
「爺さんではない。儂はソルトーじゃ」
「ソルト?塩?」
「塩ではない。儂は煉獄選別人のソルトーじゃ」
「なるほどね、だから全身白いのか」
「これは地毛でこの白衣は制服じゃ」
「制服ってことは雇われてるってことだよな?ちなみに給料良いの?ってか何歳?」
「そんなことはどうでも良いじゃろう」
「だな。話が進まねぇから話を戻そうぜ」
「お主が脱線させたんじゃろうが」
「まぁまぁ」
「なぜお主が煽てる?」
「まぁまぁ」
「馬鹿にしとるじゃろ?」
「それより、煉獄選別人って何?」
「まったく、最近の若いもんは……もうよい。儂はこの煉獄から縁国と地獄へ振り分けるために送られた使者じゃよ。地上に戻ろうとするものを止めたり、魂の浄化のためにマグマの火口に飛び込むのを後押ししたりするのが仕事じゃ」
地獄はわかるが縁国ってなんだ?
どんな世界なのか想像もつかなかった。
「なるほど。じゃあ塩爺、俺は死んだからこの煉獄にいるんだよな?」
「勝手にあだ名をつけるでない」
「まぁいいじゃん。俺と塩爺の仲だし」
「お主、絡みづらいのう」
「で、俺はいつ死んだんだ?」
「覚えておらんのか?」
「思い出そうとすると頭痛がする」
「死んだショックによるものじゃろう。ここに送られてきた以上、お主の選択肢は2つ。炎に焼かれて地獄に落ちるか、炎に焼かれて縁国へ行くか」
どっちにしろ焼かれるのかよ。
「ってか縁国ってなんだ?」
そもそもこの空間自体どうも信じ難い。
本当に死んだのなら意識なんてないはずだが。
「縁国とはな……」
塩爺が縁国について語ろうとした瞬間、
「ぐわぁ〜‼︎」
下の方から大きな爆発音のようなものと同時に断末魔の叫びが聞こえてきた。
「またか……」
塩爺の溜め息と同時に火口に向かうと、そこにはミイラの如く黒く焼け焦げた男の死体が浮き出てきた。
グロい……
「この死体はのう、一度縁国へ行ったんじゃがそこで罪を犯してこの煉獄に送られてきたんじゃ。縁国と煉獄では意思や欲望を持った状態でいられるからこういうパターンも少なくない。ただこうなったらもう地獄行き確定じゃが」
「罪って何をしたんだ?」
「縁国でのことは詳しくわからんが、おそらく己の欲望を満たそうと欲に塗れたんじゃろう」
言っている意味がよくわからず怪訝な表情を浮かべていたが塩爺はそのまま続けた。
「ほれ、あそこを見てみ」
塩爺が見上げ指差す先には、先の見えない長い階段がある。
「あの先には一体何が?」
すると、塩爺は前髪を分けて目からビームを発した。
俺は驚きのあまり口を開けたまま硬直した。
塩爺の放ったビームにより、階段の奥が見えるようになった。
そこには大きな扉があった。
「これでよく見えるじゃろう」
その前に聞きたいことががあるんだが。
目からビームって何?どういうこと?
「あんた何者だよ」
「驚くのも無理はない。儂は人間ではないからな。ガハハハ」
いや、どこで笑ってんだよ。
その扉の隙間からは微かに白い光が差し込んでいる。
でもおかげで光の詳細がわかった。
光を放っていたのは鉄の扉だった。
その扉は大人数人がかりでも開けられるくらい大きく固い。
まるで死者をあの世からこの世へと還せるのではないかと思わせるような残酷で冷徹な光。
死者からしたらあまりに罪深い扉だ。
その扉をこじ開けようとしている死者がいる。
それを止めにかかる数人の煉獄選別人たち。
「ああやって生き返りをしようとするものが多くてな。儂ら選別人も手を焼いているんじゃよ」
「そのビームでなんとかなんねぇの?」
「儂らはあくまで死者をこのマグマに飛び込ませるために送られた存在。自らの意思で飛び込まないと魂の浄化をすることはできんのじゃ」
なんか面倒くさい設定だな。
「あの扉は地上とこの煉獄をつなぐ唯一の扉。死者の魂のみが居られる場所。もちろんこちらから扉を開けることはできん」
「待ってくれ。こっちから開けることができないならあんたら選別人たちがわざわざ止めに入る必要なくないか?」
「これを見るんじゃ」
そう言うと塩爺は目から光を放ち、目の前に大きなスクリーンを映し出した。
この爺さん、マジで何者だよ。
スクリーンには俺が映っている。
誰かの部屋で誰かに刺されている。
背後には若い男がいて、俺の前で慟哭している女性がいる。
俺以外は薄くモザイクがかかっていてよく見えない。
その映像は俺の脳内を強く刺激した。
「これはお主の死ぬ直前の映像じゃ」
俺の今際の際?
「……てくれ」
「何じゃ?」
「消してくれ」
頭が痛い。
気分も優れない。
この映像は俺にとってどう受け止めて良いかわからないものだと直感で感じた。
「煉獄に来たものにはこうして自身の死の瞬間を見せて死んだことを実感してもらっておるんじゃが、それでも抗うものが多くてのう。仕方なしに止めていると言うわけじゃ」
「でも何であんたらが死ぬ瞬間なんて映せるんだ?」
「我々はそういう存在だからじゃよ」
いや、説明になってないんだが。
爺さんのめちゃくちゃな説明に違う意味で頭痛がしてきた。
「それにしてもお主、大変じゃったの」
「何がだ?」
「お主、ずっと孤独と闘ってきたんじゃな。複雑な家庭環境の中でも強く優しく育ったんじゃからのう」
あんたが何を知ってんだよ。って言おうとしたが否定できなかった。
梨紗のように震災で家族を亡くした人、事故や事件に巻き込まれて大切な人を失ってしまった人はたくさんいる。
その人たちと比べるのは少し違うのかもしれないが、それに近いものを背負ってきた。
でも自分の人生を嘆いても呪っても過去は変わらない。
だから後悔するよりも前進することを選んだ。
「この世界では地球上すべての瞬間が刻まれておる。だから誰がどこでいつ死んだのかがわかるのじゃ」
周囲に大スクリーンのようなものは見当たらない。
どのようにして記録されているのかは不明だったが、さっきの映像を見た限り納得せざるを得ない気もした。
「そんな凄いのが地上にもあったらとっと世界は平和になるのにな」
誰かがこのシステムを作ったのだとしたら、死後の世界ではなく現世に置いてほしいと切に願った。
少しの沈黙の後、ありえないとは思っていたが一応訊いてみた。
「死者が蘇るってことはあるのか?」
「そんなのゲームの世界だけじゃ。それでも実際ここに来ると、もしかしたら蘇れるかもと信じ込むものがおる」
気持ちはわからなくはない。
死んだ感覚がないままいきなりこの異様な空間に放り込まれても頭の整理がつかないし、下手したら夢の中や異世界にいるのではないかと錯覚すら起こしてしまう。
ましてやいきなり現れた爺さんが目からビームを放ったら尚更のこと。
「『ここは死後の世界で生き還るなんてことは決してない。魂を浄化させて天国へと向かうんじゃ』と何度も言ったんじゃがのう。生前と同じ姿で意識もあるから生きていると勘違いするものも少なくないんじゃ。人は団結すると怖いもんじゃな。束になって押し寄せてくる。とくにこういう状況のときは」
急にあなたは死にましたって言われても身も心もある時点で事実を受け止めない人は多いだろう。
扉の前ではいまだに多くの死者が生き還ろうと必死に抵抗している。
「なんか窮鼠猫を噛むというか、窮すれば通ずというか、朱に染まれば赤くなるというか」
「いや、どれも違うぞ」
踠き、足掻き、抗う。
自分の想いを表現する上では大切な行動のひとつ。
これが生きている証拠でもあり、自身の存在表明でもある。
脳が完全に死んでいない限り、自分の死を受け入れるのは容易ではない。
「素朴な疑問だけど、最初から仮死状態にしてここに送ればこんなややこしい問題起きなくないか?」
「大切なのは自らの意志で自らの運命を受け入れることにある。無意識では何の意味も成さない」
たしかに、誰かに強要されたものは本心とは異なることが多い。
結果納得などしていない。
「それに、誰もこんなところに居たくはないじゃろう?」
その通りだ。
誰もこんな暗闇の洞窟の中のようか異空間にいたいとは思わない。
「ここに居続けても何も残らない。残るのは満たされないまま残る魂の抜け殻だけ」
背に腹は変えられないって言うけれど、この煉獄に留まる理由はない。
少なからず俺には。
「賽は投げられたって感じか」
「これを言うなら、匙は投げられたじゃろう」
「そうとも言う」
「いや、そうとしか言わん」
塩爺は踵を返し、下の方に向かってビームを放った。
すると、微かに見えていた赤い光は火力を増したのか灼熱の炎となって俺の足元にまで燃え上がった。
「おい、爺さん。何してんだよ」
その熱で眼鏡が一瞬で曇り、身体の熱が急上昇していくのがわかる。
熱い。めちゃくちゃ熱い。
これ以上近づくと焼け焦げてしまうレベル。
「あそこに飛び込んだ先に縁国と地獄の分かれ道がある。しかし、自分の意思では選べん。地獄はその名の通り、生前の罪の意識を持った状態で永遠に償い続ける漆黒の世界じゃ」
説明とかいいからまずこの炎をなんとかしてくれ。
このままだと熱くて思考が停止しそうだ。
「縁国というのはこの煉獄と天国の間の世界だと思ってもらえるとわかりやすいじゃろう。純粋無垢な魂のみが行ける無の地、天国。そこに行くまでに意識を数日間持った状態で魂を綺麗にしてもらう。いわば天国へ向かう前の魂の浄化の場所だと思ってもらえれば良い」
「なぜ煉獄を経由する必要がある?最初からその縁国ってところへ送れば早いんじゃ?」
「人は罪深い。嘘、僻み、妬みみ、嫉み、偽善に欺瞞。無意識のうちに軽犯罪を犯していることもある。誰しもそういった感情を持ち、一度はそういった行動をしているんじゃ」
思い当たる節はある。
コンビニやスーパーに家庭のゴミを捨てる。
買い物をせずにトイレだけ使う。
信号無視。
他人の携帯電話の画面を覗き見する。
これらはすべて犯罪になる可能性があるというのを耳にしたことがある。
「もしそれがゼロの可能性があるとするのならば、生まれて間もなぬ亡くなってしまった赤子のみだろう」
例外を除き、死んだものは一度この煉獄に集められ、そこから縁国に行くか地獄に落ちるか振り分けられているんだろう。
「煉獄の炎を浴びただけでは完全には消えん場合がある。とくに生前への思いが強いものはな」
「ここにいまから飛び込めと?」
「そうじゃ」
「拒否したらどうなる?」
「屍の魂となってこの世界に漂い続けることになる」
こんなわけのわからない世界にいたいわけがない。
飛び込む決意が出ないまま正面に見える離れ小島を指差す。
「あの先には一体何が?」
「知らなくて良い」
何か知られたくないものでもあるのか、爺さんが急に冷たくなった。
「何で?」
「資格がないからじゃ」
「資格?運転免許なら持ってるぞ?」
「そうではない。あそこは条件を満たした限られたものしか行けんのじゃ」
「なるほど。目からビーム出せるようにならないとダメってことか」
「そうではない。お主は行く必要のない場所じゃ」
「どういう意味だ?」
「そんなことより、お主には会わねばならん人がおるんじゃろう?」
そう、俺には会わなきゃいけない人がいた。
その人に直接会って確かめたいことがあった。
でもなぜか顔も声も名前も思い出せない。
強く思い出そうとすると激しい頭痛がする。
熱さも重なり、頭を抑えながらその場に蹲る。
「おい、若僧。大丈夫か?」
「……あ、あぁ」
駄目だ。その子を思い出すことがどうしてもできない。
「爺さん、頭痛薬持ってないか?」
「そんなものはない。死人には必要ないじゃろう」
そもそも死んでいるのに頭痛がするって何なんだよ。
「じゃあ水は?」
「ビームを出して楽しませることならできるぞ」
こんなときに軽口を叩く爺さんに一瞬殺意が芽生え睨めつけた。
「冗談じゃ、ほれ」
どこからともなく出てきた水を背中越しに渡された。
一口飲んだら少し楽になった。
しばらくして頭痛も治まってきたところで質問をする。
「塩爺はこの仕事長いのか?」
「儂らはここを管理するために作られた存在だから他の世界のことはよく知らん。もう何百年、何千年と同じ景色の中におる。最近は腰が痛くなることも増えてきてな。さすがにガタが来ているのを感じざるを得んよ。そろそろ潮時かもな、塩だけに」
再び一瞬殺意が芽生えた。
塩爺が横目で反応を求めてきたが、つまらなすぎて無視した。
「まぁ儂がダメになってもすぐに新しいものが送られてくるじゃろうて」
淡々と話すその口調からは何の感情も感じなかった。
長い髪に覆われた瞳を確認することはできなかったが、きっと無表情なんだと思う。
使命感や達成感もなく、ただ業務としてこなすことだけを命じられた存在。それが彼ら煉獄選別人。
結局、縁国という世界もこの煉獄のこともよくわからないままだったが、ここに居続けても何も変わらないことだけはわかった。
熱気で曇っていた眼鏡を拭き、深呼吸をする。
程なくしてマグマに飛び込んだ。
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「ソルトー様」
「なんじゃ?」
「この魂なんですが、身元がわかりません」
「身元がわからない?」
「はい。どうやら家族も親族もいないようで、誰の魂か判明できない状況です」
「時間がかかりそうじゃな」
「そうですね」
「ただ身元がわからないとどこに送るべきかわからないからのぅ」
「お調べいたします」
「いつもすまんな」
「お任せください」
「わかるまでは保冷室に保管しておくから、分かり次第身体を顕現させよう」
「承知致しました」
☕️
あの日俺は誰かに刺された……はずだが、記憶が曖昧でちゃんと思い出せない。
思い出そうとすると激しい頭痛がする。
ここはどこだろう?
洞窟の中だろうか?
それにしては天井が見えないくらい高いし、天気が澄んでいる。
となるとここは黄泉の国?
いや、そんなものはないはず。
宇宙のように広く暗いこの空間にポツンとある踊り場に立ちながら状況を理解しようとするが全然しっくりこない。
何かを叩く音や何かが燃える音が微かに聞こえてくる。
右上の方を見ると、そこには長い階段がある。何かに形容するなら万里の長城といったところだろうか。
永遠に続くのではないかというくらい先の見えない階段の果てには一体何があるのだろうか?
左側を見下ろすと段差の激しい階段があり、遥か下から深紅に燃える光のようなものが見えるが、少し顔を覗かせただけで熱さが肌を燃やしにかかってくる。
踏み外して落っこちたら一瞬にして燃え尽きてしまいそうな温度だ。
正面には離れ小島のようなものがいくつか見える。
しかしそこに行くことができるのは空を飛べるものか魔法使いだけだろう。
走り幅跳びの世界記録保持者でも全く届かないくらい遠くにある。
仮に渡れたとして、その先には一体何があるのだろうか?
光の当たらない、道の見えないその先はブラックホールに似た暗闇の世界なのか、それとも行き止まりなのか見当もつかなかった。
そして背後にはこの空間にそぐわない威圧感と圧迫感の大きな壁が聳え立っていた。
巨大なダイナマイトでも破壊することができないような高い壁。
行き先は2つ。
果てなく続く階段を登っていくのか、それとも燃えるような熱さに耐えながら降っていくのか。
壁に寄りかかり、腕を組みながら考えていると、どこからともなく嗄れた声が聞こえてきた。
「ここは、プルガトリウムじゃ」
声の方を向くと、白衣を着た老人が両腕を後ろに組みながら立っていた。
その老人は髪も髭も白く、その長さで目が隠れていてよく見えない。
ってかいつ現れた。
さっきまで人なんていなかったぞ。
「プルガトリウムってことは煉獄?」
「そうじゃ」
「ってことは爺さん元鬼殺隊?」
「鬼殺隊?何の話じゃ?」
「いえ、何でもないです」
変な空気に耐え切れず敬語になってしまった。
そういえばこの前煉獄について書かれている本を読んだことがある。
『人は何かしらの罪を背負って生きていく。例外を抜きにして。死後はその罪を償わなければならない。この煉獄の地で肉体を焼き、魂を浄化することで真の天国へと行ける』
胡散臭い内容だったから逆に覚えていたが、まさかな。
「死者の魂を浄化するために送られてくる場所だろ?」
「簡単に言うとそういうことじゃ」
待てよ。本当にここが煉獄なら、俺はすでに死んでいる?
「おい、爺さん」
「爺さんではない。儂はソルトーじゃ」
「ソルト?塩?」
「塩ではない。儂は煉獄選別人のソルトーじゃ」
「なるほどね、だから全身白いのか」
「これは地毛でこの白衣は制服じゃ」
「制服ってことは雇われてるってことだよな?ちなみに給料良いの?ってか何歳?」
「そんなことはどうでも良いじゃろう」
「だな。話が進まねぇから話を戻そうぜ」
「お主が脱線させたんじゃろうが」
「まぁまぁ」
「なぜお主が煽てる?」
「まぁまぁ」
「馬鹿にしとるじゃろ?」
「それより、煉獄選別人って何?」
「まったく、最近の若いもんは……もうよい。儂はこの煉獄から縁国と地獄へ振り分けるために送られた使者じゃよ。地上に戻ろうとするものを止めたり、魂の浄化のためにマグマの火口に飛び込むのを後押ししたりするのが仕事じゃ」
地獄はわかるが縁国ってなんだ?
どんな世界なのか想像もつかなかった。
「なるほど。じゃあ塩爺、俺は死んだからこの煉獄にいるんだよな?」
「勝手にあだ名をつけるでない」
「まぁいいじゃん。俺と塩爺の仲だし」
「お主、絡みづらいのう」
「で、俺はいつ死んだんだ?」
「覚えておらんのか?」
「思い出そうとすると頭痛がする」
「死んだショックによるものじゃろう。ここに送られてきた以上、お主の選択肢は2つ。炎に焼かれて地獄に落ちるか、炎に焼かれて縁国へ行くか」
どっちにしろ焼かれるのかよ。
「ってか縁国ってなんだ?」
そもそもこの空間自体どうも信じ難い。
本当に死んだのなら意識なんてないはずだが。
「縁国とはな……」
塩爺が縁国について語ろうとした瞬間、
「ぐわぁ〜‼︎」
下の方から大きな爆発音のようなものと同時に断末魔の叫びが聞こえてきた。
「またか……」
塩爺の溜め息と同時に火口に向かうと、そこにはミイラの如く黒く焼け焦げた男の死体が浮き出てきた。
グロい……
「この死体はのう、一度縁国へ行ったんじゃがそこで罪を犯してこの煉獄に送られてきたんじゃ。縁国と煉獄では意思や欲望を持った状態でいられるからこういうパターンも少なくない。ただこうなったらもう地獄行き確定じゃが」
「罪って何をしたんだ?」
「縁国でのことは詳しくわからんが、おそらく己の欲望を満たそうと欲に塗れたんじゃろう」
言っている意味がよくわからず怪訝な表情を浮かべていたが塩爺はそのまま続けた。
「ほれ、あそこを見てみ」
塩爺が見上げ指差す先には、先の見えない長い階段がある。
「あの先には一体何が?」
すると、塩爺は前髪を分けて目からビームを発した。
俺は驚きのあまり口を開けたまま硬直した。
塩爺の放ったビームにより、階段の奥が見えるようになった。
そこには大きな扉があった。
「これでよく見えるじゃろう」
その前に聞きたいことががあるんだが。
目からビームって何?どういうこと?
「あんた何者だよ」
「驚くのも無理はない。儂は人間ではないからな。ガハハハ」
いや、どこで笑ってんだよ。
その扉の隙間からは微かに白い光が差し込んでいる。
でもおかげで光の詳細がわかった。
光を放っていたのは鉄の扉だった。
その扉は大人数人がかりでも開けられるくらい大きく固い。
まるで死者をあの世からこの世へと還せるのではないかと思わせるような残酷で冷徹な光。
死者からしたらあまりに罪深い扉だ。
その扉をこじ開けようとしている死者がいる。
それを止めにかかる数人の煉獄選別人たち。
「ああやって生き返りをしようとするものが多くてな。儂ら選別人も手を焼いているんじゃよ」
「そのビームでなんとかなんねぇの?」
「儂らはあくまで死者をこのマグマに飛び込ませるために送られた存在。自らの意思で飛び込まないと魂の浄化をすることはできんのじゃ」
なんか面倒くさい設定だな。
「あの扉は地上とこの煉獄をつなぐ唯一の扉。死者の魂のみが居られる場所。もちろんこちらから扉を開けることはできん」
「待ってくれ。こっちから開けることができないならあんたら選別人たちがわざわざ止めに入る必要なくないか?」
「これを見るんじゃ」
そう言うと塩爺は目から光を放ち、目の前に大きなスクリーンを映し出した。
この爺さん、マジで何者だよ。
スクリーンには俺が映っている。
誰かの部屋で誰かに刺されている。
背後には若い男がいて、俺の前で慟哭している女性がいる。
俺以外は薄くモザイクがかかっていてよく見えない。
その映像は俺の脳内を強く刺激した。
「これはお主の死ぬ直前の映像じゃ」
俺の今際の際?
「……てくれ」
「何じゃ?」
「消してくれ」
頭が痛い。
気分も優れない。
この映像は俺にとってどう受け止めて良いかわからないものだと直感で感じた。
「煉獄に来たものにはこうして自身の死の瞬間を見せて死んだことを実感してもらっておるんじゃが、それでも抗うものが多くてのう。仕方なしに止めていると言うわけじゃ」
「でも何であんたらが死ぬ瞬間なんて映せるんだ?」
「我々はそういう存在だからじゃよ」
いや、説明になってないんだが。
爺さんのめちゃくちゃな説明に違う意味で頭痛がしてきた。
「それにしてもお主、大変じゃったの」
「何がだ?」
「お主、ずっと孤独と闘ってきたんじゃな。複雑な家庭環境の中でも強く優しく育ったんじゃからのう」
あんたが何を知ってんだよ。って言おうとしたが否定できなかった。
梨紗のように震災で家族を亡くした人、事故や事件に巻き込まれて大切な人を失ってしまった人はたくさんいる。
その人たちと比べるのは少し違うのかもしれないが、それに近いものを背負ってきた。
でも自分の人生を嘆いても呪っても過去は変わらない。
だから後悔するよりも前進することを選んだ。
「この世界では地球上すべての瞬間が刻まれておる。だから誰がどこでいつ死んだのかがわかるのじゃ」
周囲に大スクリーンのようなものは見当たらない。
どのようにして記録されているのかは不明だったが、さっきの映像を見た限り納得せざるを得ない気もした。
「そんな凄いのが地上にもあったらとっと世界は平和になるのにな」
誰かがこのシステムを作ったのだとしたら、死後の世界ではなく現世に置いてほしいと切に願った。
少しの沈黙の後、ありえないとは思っていたが一応訊いてみた。
「死者が蘇るってことはあるのか?」
「そんなのゲームの世界だけじゃ。それでも実際ここに来ると、もしかしたら蘇れるかもと信じ込むものがおる」
気持ちはわからなくはない。
死んだ感覚がないままいきなりこの異様な空間に放り込まれても頭の整理がつかないし、下手したら夢の中や異世界にいるのではないかと錯覚すら起こしてしまう。
ましてやいきなり現れた爺さんが目からビームを放ったら尚更のこと。
「『ここは死後の世界で生き還るなんてことは決してない。魂を浄化させて天国へと向かうんじゃ』と何度も言ったんじゃがのう。生前と同じ姿で意識もあるから生きていると勘違いするものも少なくないんじゃ。人は団結すると怖いもんじゃな。束になって押し寄せてくる。とくにこういう状況のときは」
急にあなたは死にましたって言われても身も心もある時点で事実を受け止めない人は多いだろう。
扉の前ではいまだに多くの死者が生き還ろうと必死に抵抗している。
「なんか窮鼠猫を噛むというか、窮すれば通ずというか、朱に染まれば赤くなるというか」
「いや、どれも違うぞ」
踠き、足掻き、抗う。
自分の想いを表現する上では大切な行動のひとつ。
これが生きている証拠でもあり、自身の存在表明でもある。
脳が完全に死んでいない限り、自分の死を受け入れるのは容易ではない。
「素朴な疑問だけど、最初から仮死状態にしてここに送ればこんなややこしい問題起きなくないか?」
「大切なのは自らの意志で自らの運命を受け入れることにある。無意識では何の意味も成さない」
たしかに、誰かに強要されたものは本心とは異なることが多い。
結果納得などしていない。
「それに、誰もこんなところに居たくはないじゃろう?」
その通りだ。
誰もこんな暗闇の洞窟の中のようか異空間にいたいとは思わない。
「ここに居続けても何も残らない。残るのは満たされないまま残る魂の抜け殻だけ」
背に腹は変えられないって言うけれど、この煉獄に留まる理由はない。
少なからず俺には。
「賽は投げられたって感じか」
「これを言うなら、匙は投げられたじゃろう」
「そうとも言う」
「いや、そうとしか言わん」
塩爺は踵を返し、下の方に向かってビームを放った。
すると、微かに見えていた赤い光は火力を増したのか灼熱の炎となって俺の足元にまで燃え上がった。
「おい、爺さん。何してんだよ」
その熱で眼鏡が一瞬で曇り、身体の熱が急上昇していくのがわかる。
熱い。めちゃくちゃ熱い。
これ以上近づくと焼け焦げてしまうレベル。
「あそこに飛び込んだ先に縁国と地獄の分かれ道がある。しかし、自分の意思では選べん。地獄はその名の通り、生前の罪の意識を持った状態で永遠に償い続ける漆黒の世界じゃ」
説明とかいいからまずこの炎をなんとかしてくれ。
このままだと熱くて思考が停止しそうだ。
「縁国というのはこの煉獄と天国の間の世界だと思ってもらえるとわかりやすいじゃろう。純粋無垢な魂のみが行ける無の地、天国。そこに行くまでに意識を数日間持った状態で魂を綺麗にしてもらう。いわば天国へ向かう前の魂の浄化の場所だと思ってもらえれば良い」
「なぜ煉獄を経由する必要がある?最初からその縁国ってところへ送れば早いんじゃ?」
「人は罪深い。嘘、僻み、妬みみ、嫉み、偽善に欺瞞。無意識のうちに軽犯罪を犯していることもある。誰しもそういった感情を持ち、一度はそういった行動をしているんじゃ」
思い当たる節はある。
コンビニやスーパーに家庭のゴミを捨てる。
買い物をせずにトイレだけ使う。
信号無視。
他人の携帯電話の画面を覗き見する。
これらはすべて犯罪になる可能性があるというのを耳にしたことがある。
「もしそれがゼロの可能性があるとするのならば、生まれて間もなぬ亡くなってしまった赤子のみだろう」
例外を除き、死んだものは一度この煉獄に集められ、そこから縁国に行くか地獄に落ちるか振り分けられているんだろう。
「煉獄の炎を浴びただけでは完全には消えん場合がある。とくに生前への思いが強いものはな」
「ここにいまから飛び込めと?」
「そうじゃ」
「拒否したらどうなる?」
「屍の魂となってこの世界に漂い続けることになる」
こんなわけのわからない世界にいたいわけがない。
飛び込む決意が出ないまま正面に見える離れ小島を指差す。
「あの先には一体何が?」
「知らなくて良い」
何か知られたくないものでもあるのか、爺さんが急に冷たくなった。
「何で?」
「資格がないからじゃ」
「資格?運転免許なら持ってるぞ?」
「そうではない。あそこは条件を満たした限られたものしか行けんのじゃ」
「なるほど。目からビーム出せるようにならないとダメってことか」
「そうではない。お主は行く必要のない場所じゃ」
「どういう意味だ?」
「そんなことより、お主には会わねばならん人がおるんじゃろう?」
そう、俺には会わなきゃいけない人がいた。
その人に直接会って確かめたいことがあった。
でもなぜか顔も声も名前も思い出せない。
強く思い出そうとすると激しい頭痛がする。
熱さも重なり、頭を抑えながらその場に蹲る。
「おい、若僧。大丈夫か?」
「……あ、あぁ」
駄目だ。その子を思い出すことがどうしてもできない。
「爺さん、頭痛薬持ってないか?」
「そんなものはない。死人には必要ないじゃろう」
そもそも死んでいるのに頭痛がするって何なんだよ。
「じゃあ水は?」
「ビームを出して楽しませることならできるぞ」
こんなときに軽口を叩く爺さんに一瞬殺意が芽生え睨めつけた。
「冗談じゃ、ほれ」
どこからともなく出てきた水を背中越しに渡された。
一口飲んだら少し楽になった。
しばらくして頭痛も治まってきたところで質問をする。
「塩爺はこの仕事長いのか?」
「儂らはここを管理するために作られた存在だから他の世界のことはよく知らん。もう何百年、何千年と同じ景色の中におる。最近は腰が痛くなることも増えてきてな。さすがにガタが来ているのを感じざるを得んよ。そろそろ潮時かもな、塩だけに」
再び一瞬殺意が芽生えた。
塩爺が横目で反応を求めてきたが、つまらなすぎて無視した。
「まぁ儂がダメになってもすぐに新しいものが送られてくるじゃろうて」
淡々と話すその口調からは何の感情も感じなかった。
長い髪に覆われた瞳を確認することはできなかったが、きっと無表情なんだと思う。
使命感や達成感もなく、ただ業務としてこなすことだけを命じられた存在。それが彼ら煉獄選別人。
結局、縁国という世界もこの煉獄のこともよくわからないままだったが、ここに居続けても何も変わらないことだけはわかった。
熱気で曇っていた眼鏡を拭き、深呼吸をする。
程なくしてマグマに飛び込んだ。